「イラクの湿地帯に自分の舟を置きっぱなしなんだよね」
トークイベントで共演した高野秀行さんが楽屋で何気なく話してくれたのは2019年の秋のことだった。この後に「巨大な湿地帯があって、そこが水滸伝なんだよね」と重ねてきたところで、「さすが高野さん、またやってるんだ!」と思った。
高野さんの作品の面白さは形になる前から始まっているのを知っているからだ。「イラク」「舟」「巨大な湿地帯」「水滸伝」これらのキーワードだけでは何ひとつとして我々にわかるはずがないのにである。というのも絶対に読者を「困惑」させる面白さがあるとわかっているからだ。実際、出版された『イラク水滸伝』は、簡単に期待値を超えてきてくれた。
まず、巨大湿地帯・アフワールはイラクに実在していた。そこにはイラクのアウトローやマイノリティが集っている。このあたりが『水滸伝』のようで、登場人物も高野さんが奇人と呼ぶ人や湿地帯の王(アミール)など濃いキャラが揃っていた。湿原には独自の文化が育まれており、浮島(チバーシェ)があったり、ムディーフという葦の建造物もある。そして、高野さんが所有している伝統的な舟・タラーデ。いかなる手段でこの舟を手にするのか、どのように活用したのか、置き去りにして大丈夫だったのか。もう少し詳しくお伝えしたいのだが、ぜひ本書を読んでもらいたいので野暮なネタバレは回避しておきたい。
そのかわり、先ほども触れた読者が高野本に求める「困惑」についてまとめておきたい。
現地到着までの長すぎる道のり、治安面での懸念があるイラクを旅するための入念すぎる下準備など、読者は「大丈夫なのか」となる。そこに困惑がある。それでも安心して困惑を楽しめるのは、結果的に高野さんらしい着地をしてくれるのを知っているからだ。大きくそれたと思ったら、実は着地点への一番の近道だったというのはよくあること。それを毎回楽しく読ませてくれるのは、高野秀行という作家の構成力と筆力ならではなのだが、今回は更なる革命が起きた。シェイフ・ヤマダこと山田隊長のイラストがとんでもなく理解を促してくれるのだ。文章に足りないところがあったわけではない。特徴をとらえたイラストとそこに加えられた注釈によって写真とは違った気づきがあり、現場をイメージしやすくなったのだ。おかげで、古代史、地域史、国際関係、宗教、グルメ、アートなどなど、読み終わってみれば極めて多くの学びを得ることができた。高野秀行を知らなければ、人生を確実に損している。この人の本との出会いが、どれほどの人間を冒険へと誘ったのか。ぜひ知っておいてもらいたい。ちなみに高野本はあとがきまで油断できない。読み残しは厳禁!である。
たかのひでゆき/1966年東京都生まれ。ノンフィクション作家。『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。『謎の独立国家ソマリランド』で講談社ノンフィクション賞を受賞。他の著書に『辺境メシ』『幻のアフリカ納豆を追え!』『語学の天才まで1億光年』等がある。
まるやまごんざれす/1977年生まれ。ジャーナリスト。著書に『MASTERゴンザレスのクレイジー考古学』『世界の危険思想』等。