ついにタンパク質ができた
バーナサン教授の研究室で、mRNAを細胞に入れて、思い通りのタンパク質を作ることができた日のことは忘れられません。プリンターから測定データがプリントアウトされるのを見つめていました。すると、結果は見事にその細胞が作るはずのないタンパク質ができたことを示していたのです。まるで、自分が創造主にでもなったような気分でした。
これで心臓バイパス手術を受ける患者の血管を強くすることができるかもしれない、脳出血やくも膜下出血の患者を助けられるかもしれない。興奮したあまり、そんなことを教授と語り合ったことを思い出します。
この結果が示しているのは、感染症予防のための抗体、珍しい病気を治す酵素、損傷した心臓組織を修復する成長因子など、思い通りのタンパク質を作り出すことが可能になるということです。
研究資金がない!
ですが、それ以上の研究資金を集められず、チームは解散。バーナサン教授は大学からバイオ企業に移りました。いまから見れば先進的で重要な研究でしたが、当時は斬新すぎて理解してもらえず、研究費を獲得することができませんでした。
実際のところ、これまで私は人の情けで研究をなんとか続けてこられたようなものです。研究助成金を申請する書類を毎日のように書いていましたが、不採用の連続。私が研究者人生で助成金をもらえたのは、後に述べる1回だけです。
学会の会議では隣に座った人に必ず話しかけました。何の研究をしているのですか、と。相手が答えたら、こう言うのです。
「あら、もしかしたら私が研究しているRNAの技術が使えるかもしれませんね。あなたの研究にぴったりのRNAを作ってあげますよ」
RNAを合成するにはちょっとしたコツが必要なのですが、私は得意でしたからね。でも、そのうち学会内では「RNAを押し付けてくる人」なんて言われるようになりました。
とにかくRNAを研究する意義をみんなに知ってほしかったし、そうやって知り合えば、いつか何かのきっかけで協力してもらえるかもしれない。そう思ったのです。
1995年には大学から「成果を出せていないし、社会的に意義のある研究とは認められない」と降格を言い渡され、おまけに自分のがんまでみつかりました。途方に暮れて、本当にどこかへ行ってしまおうかと思ったこともあります。
ワイスマン教授との出会い
それでもあきらめずに研究を続けていたとき、出会ったのが後に共同研究者となるワイスマン教授です。コピー機の順番を待って並んでいたとき、ペンシルバニア大学に赴任してきたばかりだった彼がいたんです。それでいつものように、何の研究をしているんですかと、私から話しかけました。
「HIVウイルスのワクチンを開発したいんだけど、DNAだとうまくいかないんだ」
と彼が言うので、ではmRNAを使ってみたらどうでしょうかと提案したんです。それから共同研究が始まりました。