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 それに対して、初めて見たダウンタウンのネタは、パワーとは対極にあるシュールなネタであり、センスに満ちあふれていた。

ダウンタウンの2人 ©文藝春秋

 しかも、くだらなくて面白い。漫才の実力もある。「はあ~。こんなコンビが大阪から出てきたのか……。時代が変わったなあ。とてもじゃないけど、こりゃ敵わないや……。まだ全国的に無名だけど、売れるな」

 おそらく、小宮と石井も同じようなことを感じていたと思う。

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 そのうえ、後で聞いたら、ダウンタウンは、1982年春に高校卒業後、吉本興業が創設したばかりの新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」に一期生として入学してから、わずか3年半のキャリアだったという。

それから、俺たちは、ネタを作らなくなった

 コント赤信号は、イベントのメインの出演者だというのに、もはや負け戦を続けるしかなかった。

 そのとき、こう思った。

「あー、もう俺たちの時代じゃないなー。これからこういう若手がドンドン出てくる。ネタで勝負をかけていくのは、もういいか……」

 それから、俺たちは、ネタを作らなくなった。

 実は、紳助さんが、1985年5月に紳助・竜介の解散会見をした際、その理由として、勝てない相手の1組にダウンタウンの名を挙げているのだが、とても理解できる。

 つまり、1985年9月26日と27日は、「コントが漫才をこえる」というよりも、「ダウンタウンがコント赤信号をこえていった」と思い知らされた日だった。