豊田家の御曹司を抜擢したわけ
「アジア本部本部長」はアジア全域を統括する責任者である。潜在的には世界一の市場となる可能性のある中国市場は、その中でも最も重要な地域だった。しかし、天津汽車との合弁、その契約を変えることができない中国共産党の政策が足枷となって、トヨタは先の展望が、まったく描けない状態になってしまった。いち早く中国に進出した海外メーカーや、日本の他社から大きく遅れを取っていた。
当時、天津汽車はトヨタの子会社、ダイハツからの技術支援を受けて、小型車「シャレード(中国では夏利)」を生産していた。天津汽車は、国家から小型車の生産しか許されていない準大手で、そもそもフルラインナップの車種を持つ、“世界のトヨタ”が組むべき相手ではなかったのだ。
その中国市場を統括する責任者に、豊田家の御曹司を充てたのは、奥田の“深謀遠慮”だった。つまり、中国市場での失敗はそのまま、社長への道が険しいものになることを意味していたからである。
章男をアジア本部本部長に任命した奥田は、章男に、こんな言葉をかけた。
「トヨタはいくらでも中国(トヨタ)を支援するから、5000億でも6000億でも、中国市場を立て直すために使って構わない。ぜひがんばって欲しい」
深謀遠慮が生み出した人事
奥田の投げかけた言葉の真の意味を、章男は理解しただろうか。5000億円でも、6000億円でも使って構わない、と奥田は言う。つまり、途方もない金をつぎ込んで失敗すれば、それこそ“ダメ経営者”の烙印を押しやすいというものだった。
創業家はトヨタの象徴であり、旗であるが、創業家=社長という訳ではない。奥田の深謀遠慮が生み出した人事が、章男のアジア本部本部長就任だった。
章男の双肩に、中国という重責が背負わされたのと同じ時、服部も中国に復帰する人事を受け取っていた。当初、奥田に呼ばれた服部に内示があったのは、新規事業として立ち上げる、バイオテクノロジー関連の研究所の所長というポストだった。その人事を断った服部は、中国事務所復帰という強い希望を奥田に伝えていた。最初は顔をしかめていた奥田だったが、最終的には、
「お前の願いを叶えた」
と言って、中国市場への復帰を伝えた。服部の肩書は「トヨタ中国事務所総代表」というものだった。
「でも、天津(汽車)があれじゃあな……」
奥田はこう言って、口を噤んだ。
北京入りの前に章男氏と面会
数日後、服部の姿は、四川省の成都市にあった。すぐにでもトヨタ中国の事務所がある首都、北京に入りたかったが、まず服部が会わねばならなかった人物が、成都市に滞在していた。その人物は、アジア本部長となった章男だった。