在野の学者はアカデミ学者のように見識ぶることができず、またはそれを拒否するので、自ずと庶民を相手とし、庶民性をます。また庶民性がつよいからアカデミに入らぬともいえる。
そのことは文章にまずよく現れており、喜田貞吉(彼は一時アカデミにもいたが精神は在野である)、牧野富太郎、福本日南。等々の人々の文章には、学究風のイヤラシイ気取りがない。「これは××学派によつて赤と言おうと思えば言えぬこともないであろう。純学問的立場から、むしろ○○学派の見地をとり、黒といつておくのがよかろうと思うのが、私の学的立場に他ならないのである」などという文章は彼らには書けないのである。
南方は学は東西にわたっているが、その文章はあくまで率直な庶民風で、彼のものを読んで何か勇気を鼓舞されるように感じるのは、もちろんその説にもよるが、あのあけすけな文体の力も大きいのである。その点で最も見事なのは手紙の文体である。
性科学の権威者
彼は好んで男女愛欲のことを書き、それが彼の一種の人気の一要素となつているが、それも私は彼の庶民性と無関係ではないと思う。もちろんセックスは食欲とともに人間生活の基本的欲求ないし原動力であって、これを無視ないし軽視することは、真の人文科学の成立を不十分にするものであり、南方がその点に精力をそそいだのは正しい態度であった。彼はそれをひやかした士宜法龍師に反撃している(明治36年7月18日の手紙)。
性科学はハヴロック・エリス、マーガレット・ミード、キンゼイ等々によって次第に進められているが、東洋においてこれを樹立するさい、南方の業績は力づよい手がかりをなすだろう。岩田準一に与えて男色を論じた60通の手紙のごときは、日本における同性愛の文献中おそらく最も基礎的な材料であろう。
しかし、そうした学的見地のほかに、南方は民衆がこうした話題を好むことを知っており、それをすなおに満足させてやりたいという純真な気持もあったと推察される。そしてそれらの文章は無類に面白いものである。
山本達雄農林大臣が南方に会い、あなたがそんなに勉学しているのなら大臣たる自分が知らぬはずはない、などと威張っていたが、一たび催淫剤についての該博な知識に接すると、「処女をよろこばす妙薬はないものかね」などといい出し、英国皇太子の出迎えの時間も忘れかけるという逸話があるが(8・61以下)、南方の妙文に接して山本を笑える人は少いかも知れない。
ただ愛欲のことを書くときの彼の文章は、他の場合もそうだが、からっとしていて全くいや味がないことを指摘しておきたい。これは彼の人がらとも関係があることと思われる。彼は40まで童貞をまもり、結婚後は模範的な夫であった。
私はもとより道学的に、彼の品行方正を讃美することによって、彼の学問を挙げようとするものではない。ただ女たらしは女性をよく知らぬといわれることの逆に、彼の節制的な生活が愛欲についての博学をえさしめたという仮説をのべたいにすぎない。
その他の点においても、彼が純真な人物であったことは、彼の全集を一読したものの必ずさとるところであろう。もとより彼にはさまざまの奇行がある。ただそれはどこか古代風のこの純真な学者が、日本という特別な近代国家におかれたことから生じる、避けがたい帰結なのである。
彼の博学に驚くのみで、彼のごとき純真な人物が住みにくくなり、彼の愛してやまぬ庶民性が次第にひずみを加えられつつある日本社会の欠点に同時に思いいたらぬのでは、彼の著作を読みとつたとはいえないであろう。