古風な、全人的視点を忘れない
なお些細なことだが、南方がクロポトキンの『相互扶助論』をおさえているところがある(1・272)。脚を失って動けぬカニを他のカニがたすけて伴い去ったのを見て、クロポトキンは人間もカニに劣ってはならぬ、と説いたのだが、南方はある日カニに負傷せしめて観察していると、他のカニがこれを抱いて運びさる。感心してとくとみると、カニは同胞を食いながら巣へ運ぶのであったという。私も実は山歩きをしていたころ、カニがともぐいしているのを実見したことがあるので、この個所は特に印象にのこった。南方にはそうした精神がいつも働いている。
ただ彼の仕事を推進したものと同じイギリス経験主義から育ったマリノフスキーがすぐれた理論家となり、日本でも彼と同じナチュラリストの系統から出発しながら今西錦司君が、その野外観察をふまえて独自の理論をあみ出しているのに対して、南方が個々の問題で手がたい仕事をつみ重ねつつも、全体として目立つた理論体系を示さずに終ったのは、日本全体の学問的年齢がなお若かったための不可避的制約があったと考えられる。
南方が手紙形式によって学識を伝達し、また自ら植物を栽培し、自宅にサソリまで飼っていたのは、ヨーロッパならデカルトの17世紀、ヴォルテールの18世紀にあたり、さらにその奔放な随筆風の文体はモンテーニュの16世紀をすら思わせる。日本の現実がそういう段階にあり、空理を排する彼がその現実に規定されたとも考えられるが、ともかく彼の学問には一種古風な、しかし学問が今日のごとく細分化されぬ前の全人的なもの、今日もはや呼びかえしえぬ健康なものがみとめられるのである。
底ぬけのオプチミズム
そうした南方にはニヒリズムのかげは絶無である。彼のいわば底ぬけといつてよいオプチミズムは、17歳のとき菌類の採集を思い立ち、それを死ぬまでつづけたというような持久力を可能とするその生まれつき、野外に出るナチュラリスト的生活態度、強壮な健康、あとでふれる彼の庶民性、それらを要約するものとしての絶大にして正常な自信などにもとづくものだが、同時に、それは今日生きておれば75歳以上の明治の学者に共通な性格でもあつた。
彼らは日本の上昇期に成長し、やがてその上昇は頭打ちせざるをえぬことを意識せぬままに、国力の伸長を自分たちの学問と相即的にみなし、その学問はなお欧米に劣るにせよ、努力次第で近いうちにいつかは追いつき、追いぬくという確信の下に、ほがらかさのうちに苦しい努力をつづけたのであって、それが彼らの学風に自ずと楽天的なものを与えている。
南方が長年海外にあって、そこに知己をもち、また外国文の論文を発表しつづけながら、一方において常に「国のため」という表現をこのみ、また「孫逸仙と初めてダグラス氏の室であひしとき、一生の所期はと問はる。小生答て願はくは吾々東洋人は一度西洋人を挙げて悉く国境外へ放逐したき事也と、逸仙失色せり」(柳田氏への手紙)などという面があったのも、相手のどぎもを抜こうという気持と同時に、以上の明治の学者に共通な国家意識と結びつくのである。なおそのさい彼と孫文との面会は明治30年、すなわち治外法権の改正条約がイギリスと初めて結ばれてから僅かに3年、それが全面的に廃止されたのが明治44年であることも忘れてはならない。
彼が占領下ないしは行政協定下の今の日本にいたならば、何といったか、興味のある問題だが、彼の放逐せんとしたのは西洋人の政治権力であって、西洋の文化学問でないことは、さきに引用したとおり、彼が自由平等を何よりも重しとしたことからも明らかであろう。
溢れる庶民精神
南方の学園に強靱さを与えているものには、このオプチミズムの他に、さらに在野精神がある。「小生は狷介の癖として、幇間又おかま如きぐなぐなした気象のものに物(採集物)をやるより、焼いてしまふことを好む。且小生、従来、一にも二にも官とか政府とかいふて、万事官もたれで、東京のみに書庫や博物館有て、地方には何にもなきのみならず、中央に集権して田舎物をおどかさんと、万事、田舎を枯し、市都を肥す風、学問に迄行はるるを見、大に之を忌む」(9・100)と28歳の南方はすでに官学を罵っており、それは晩年の京大臨海実験所に対する烈しい反感にまでつづくのである。
こうした強烈なアンチ・アカデミズムはアカデミの学者に必要以上の警戒心をいだかせ、今日においてすら南方を正当に評価するのをさまたげているようだが、日本において民間で学問することがいかに困難であるかを知るならば、その困難にたえるためには不屈の精神の不可欠なことが理解されるだろう。
それが時たま逸脱した行動に発現しようとも、それはむしろ当然のこととしなければならぬのである。民間の学問が健全に成長し、そこからの批判のないところでは、アカデミの学問は必ず独善化する。アカデミの学者はたとえ学問的利己主義の立場からでも、在野学者をバック・アップしなければならない段階にまだ日本はあるのである。(京都の東洋学が躍進した理由の一つは、中年まで民間学者だつた内藤湖南を官学が礼をつくして招いたことにあることを想起すべきである。)