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 この頃から、三原の町は干拓を進めている。あまりに平坦地が少なく、田んぼを耕すにしても土地が足りなかった。だから、江戸時代を通じて海を埋め立てて、“新開地”を生み出していった。明治に入ってもそれは続き、大正時代ごろからは大規模な工場が進出するようになる。

 先駆けは1917年にやってきた三原ラミー紡績(のち東洋繊維を経て現在のトスコ)。1933年には帝国人造絹糸(現在の帝人)が沖合の広大な埋立地に工場を構えた。さらに、戦時中の1943年にはお隣の糸崎駅にかけての海沿いに三菱重工もやってくる。線路沿いという立地を活かし、蒸気機関車のD51などを製造していたらしい。

 

工場と人口が増えても「新幹線が乗り入れる予定はなかった」。ところが…

 こうして戦前から戦中にかけて、海と山に囲まれた小さな町・三原は埋立で得られた新地も活かして工業都市へと変貌してゆく。工場ができれば働く人も増えるわけで、人口は増加し旧西国街道沿いから駅周辺にかけて商業エリアも生まれる。こうしていまの三原の町が形作られた。新幹線ができるとなって、駅が設けられるのも必然の流れ……。

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 と、言いたいところだが、実ははじめは三原には新幹線が乗り入れる予定はなかったという。

 

 もともと在来線の時代から、お城を貫かねばならないほど狭い平坦地。海を埋め立てて土地が広がったとはいえ、余裕があるわけではなかった。その上、駅の周囲は住宅や商店が密集している。そこに新幹線を通すとなれば、用地買収でそうとう手間取ってしまうと思われたのだ。

 だから、はじめの計画では、福山~三原間では尾道市内の在来線尾道駅とは離れた場所に新幹線駅を置く予定だった(いまの新尾道駅がそれである)。

 ところが、これに三原の人々が反発する。当時の三原市長らが中心となって駅設置の署名を集めたり、地権者たちに用地売却の同意を取り付けたり。もちろん三原の経済を支えてきた三菱重工や帝人といった大企業も一丸となって国鉄に陳情した。これが奏功し、新幹線三原駅の誕生が決まったのである。