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どうして「三原」はこんなことになった?

 この三原駅が開業したのは、1894年のことだ。隣の糸崎駅から広島駅まで線路が延びたときに開業している。当時はもちろん新幹線などなく、在来線だけの駅である。しかし、このときから三原城の真ん中を貫くように線路が敷かれている。

 というのも、その頃の三原という町は、いまよりももっと平坦部が少なかったのだ。北には山が迫り、お城の北側に西国街道が通り、そのすぐ南はもう瀬戸内の海。三原城は、まるで瀬戸内海に浮かんでいるように見えたことから、「浮城」などと呼ばれていたという。

 

 そうした町に鉄道が通ったわけで、それはもうお城だろうがなんだろうが、その真ん中を貫かざるを得なかったのだろう。

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 いま、三原の中心市街地が広がる駅の南側。その中を歩くと、ところどころに三原城の痕跡を見ることができる。例えば、駅前に建つペアシティ三原という大型複合施設。その裏手には石垣が残っていて、「三原城本丸中門跡」の碑がみえる。

 

 また、駅前広場の脇から南東に向けて少し入ると小さな池があり、「三原城船入櫓跡」の説明書き。つまりは、船で三原城に入るための船溜まりがこのあたりにあったということだ。

 

 つまり、お城の跡を貫いているのは鉄道だけではなく、もはやいまの三原の中心市街地そのものがかつて城があった場所。瀬戸内海に浮かぶ城の周りを埋め立てて、そこに市街地が形成されたのが三原という町なのである。

土地が足りなかった「三原」が“大規模工場の町”になった理由

 

 三原城は、16世紀後半に小早川隆景によって築かれた城だ。瀬戸内海に浮かぶ島をつなぐようにして整備されたという。そして、この海辺の城を拠点として毛利水軍が力を蓄える。東から織田信長の勢力が迫ってくると、対信長の前線基地として毛利家当主の毛利輝元が入城したりもしている。

 戦乱の世が落ち着くと、はじめは小早川隆景の養子で裏切り者としても有名な小早川秀秋。関ケ原の戦い後には福島正則が入り、その後は広島藩浅野氏の所領となって幕末まで続く。浅野氏は一族の重臣を配置して三原を治めさせており、領地の東の守りの要だったのだろう。