廃道が残っていた“理由”
個々の道のことはわからないとしながらも、かつては神社対岸の山全体に畑が広がり、手入れや収穫のため、日常的に村人が出入りしていたそうだ。
そのため、昔から道もたくさん存在していたという。そうした作業道の一つを地域の方々が整備し、聖神社を対岸から眺めるルートを造ってくれたわけだ。地域の人たちの手によって造られ、管理されてきた道。だからこそ、手作り感があふれていたのだ。
鋼製のケーブルが手すりとして使われていたことについても聞いてみた。すると、かつて聖神社の周辺にはマンガンの鉱山があり、鉱石などを運ぶため、索道(業務用のケーブルカー)があったという。閉山後は索道も使われなくなり、索道のケーブルがそこにあったので、ロープの代わりに使ったとのこと。索道のケーブルを歩道の手すりとして転用するという発想は、普通ではなかなか出てこない。
途中にあったトンネルも、マンガン鉱山の坑道として掘られたものを利用したのだという。
採掘の跡はなかったので、鉱石や資材の運搬用に掘られた坑道の可能性が高そうだ。周辺には、このほかにも当時の坑道がたくさん残っているという。
後日調べたところ、昭和15年から25年にかけて、神戸製鋼が大規模にマンガンを採掘していた経緯が判明した。おそらく、それ以前からも、同地では小規模に鉱物が採掘されていたのではないか。
当時、鉱山で使用していた巨大なコンプレッサーが今も山の上に残っていると教えてもらった。気になった私は、話をお聞きした翌日、早速再び山の上まで探しに行ったのだが、見つけられなかった。いずれまた、探しに行かなければならない。
さて、岡村さんであれば、聖神社について何でもご存知なのではないかと思い、山の入口にあった「ミサ」の石板についても聞いてみた。