愛知県に疎開していた文学者の杉浦明平は9月11日の日記に次のように書いた。長文だが、当時の国民の東條観を考えるうえで興味深いので引用する。
東條英機が逮捕に先立って自決した、とラジオは伝えている、寺内も重態という。戦争犯罪人数千名の名簿がすでに作成されているそうだ。東條などはいかにしても逃れられぬところだ、総辞職のときか、終戦詔勅発布の日にでも自決すれば死花を咲かせたといえただろう。最後の重臣会議においてさえ、俺にやらしておけばこんなことにはならなかったろう、とうそぶいていたという噂であり、まだ一旗挙げるつもりだったらしいから、往生際の悪いこと。よし連合国が見逃したとしても日本国民が承知しないであろう。軍部の傀儡にすぎず、演じそこないの日本的名君であった。ドンキホーテであった。首相となって以来、漬物屋をのぞいたり、ごみ箱の蓋を開いて見てまだ菜っぱのくずが残っていると訓戒して見たり、芝居が好きであって、いつか自己をヒットラー、ムッソリーニと並べてしまったようだ。尤も清掃桶だけは臭いから東京市長にゆずって自分でのぞくのをやめた。(若杉美智子ほか編『杉浦明平暗夜日記』)
次々と上がった東条英機への批判
「演じそこないの日本的名君」という東條評は、自決失敗の揶揄であるとともに、その「総力戦」指導者としての特徴をよくつかんでいる。
東條への批判は激しかった。志賀直哉は1945(昭和20)年11月27日のエッセイ「銅像」で、戦前の我々は豊臣秀吉の朝鮮出兵を漫然と「壮図と」と考えたのだから、百年、二百年と経てば今度の戦争を、その結果を忘れ自慢の種にする時が来るかもしれない、第二の東條英機が出るようなことは絶対に防がねばならない、と述べた(志賀『翌年』所収)。
志賀はその予防策として「東條英機の大きな銅像、それも英雄東條英機ではなく、今、吾々が彼に感じている卑小なる東條英機を如実に表現した銅像」を建てようと提案した。銅像の「台座の浮彫には空襲、焼跡、餓死者、追剝、強盗、それに進駐軍、その他いろいろ現わすべきものがあろう。そして柵には竹槍。かくして日本国民は永久に東條英機の真実の姿を記憶すべきである」。敗戦後の生活苦を通じて、東條は国民に無謀な竹槍の戦を強いた愚かな指導者として“記憶”されていった。