自決を選ぶべきか、法廷闘争に臨むべきか……
しかし東條が、8月27日に用賀の私邸を訪れた陸軍省高級副官・美山要蔵に自決の覚悟を語り、「戦犯の発表があったら、すぐ知らせてくれ」と頼んだという話もある。これを聞いた最後の陸相・下村定が東條を招いて皇統護持と日本の名誉のために戦争裁判に臨んでほしいと説得したが、その決意は固かったという(伊藤智永『奇をてらわず』)。東條には一貫した方針はなく、自決するか法廷闘争に臨むかをめぐって懊悩していたのではないか。
マッカーサーは、進駐当日の1945(昭和20)年8月30日の晩、東條の逮捕とA級戦犯容疑者リストの作成を命じた。その後ワシントンが日本側の捕虜虐待の事実を公表したため、米国の世論が沸騰した。それを受けて米国統合参謀本部は対日戦犯裁判の早期開始を命じた。かくして9月11日、日本政府への連絡なしに東條の逮捕が行われ、他の戦犯の第1次逮捕令が発せられた(日暮吉延『東京裁判の国際関係』)。
もっともマッカーサー連合国軍最高司令官は、時間のかかる国際裁判に批判的だった。米国単独で「東條を殺人罪(一般の)として取扱」い、迅速に裁くよう本国に要請したが、認められなかった(同)。
東久邇宮内閣の外相となった吉田茂は戦時中、近衛上奏文の作成に関与した廉で憲兵隊に逮捕されるという経験をしていた。吉田は敗戦直後の手紙で「この敗戦必らずしも悪からず」、「これより日米善解に努力するが吾等の御奉公」と述べ、「嘗て小生共を苦しめたるケンペイ君、ポツダム宣言に所謂戦争責任の糾弾に恐れをなし、米俘虐待の脛疵連、昨今脱営逃避の陋態、その頭目東条は青梅の古寺に潜伏中のよし、釈放せられし当時、実は今に見ろと小生も内々含むところなきに非りしも、今はザマを見ろと些か溜飲を下げおり候」と東條への憎しみを露わにしていた(もっとも吉田の逮捕は東條退陣後の45年4月)。青梅への潜伏云々は当時そのような噂が流れたようだ。日暮吉延は吉田をはじめとする「戦後日本外交の担い手たちは、東京裁判をいわば禊の道具とすることで日米英関係の緊密化が可能だと考えた」と指摘する(同)。
拳銃で胸を撃ち自殺を図ったのだが……
9月11日、米軍のMP(憲兵)が東條逮捕のため用賀の家を訪れた。東條は敗戦時のクーデターに参加、失敗して自決した女婿・古賀秀正少佐の遺品の拳銃で胸を撃ち自殺を図ったが、弾丸がわずかに心臓をそれて失敗した。東條内閣の閣僚からは、小泉親彦元厚生大臣、橋田邦彦元文部大臣の2人が逮捕を拒否して自殺している。
自殺に失敗した東條に国民からの批判が集中した。真崎甚三郎は翌12日、「東條の自殺狂言」について「悪党も今わ〔際〕の際に覚るらん 早く唱えよ南無阿弥陀仏」との和歌を日記に記した(『真崎甚三郎日記 昭和18年5月~昭和20年12月』)。もっとも真崎自身も11月にA級戦犯容疑者として逮捕される(のち不起訴)。