一局の将棋は、よく人生に例えられる。対戦相手と対話するように戦いが始まり、対局ひとつひとつにドラマがあるからだろう。盤上の景色はどんどん変化し、対局中は様々な感情を味わう。期待、勇気、興奮、油断、迷い、恐怖、驚き……。
「角換わりは無趣味の独身が有利」といわれるほどAIによる研究が過熱しても、メンタルが勝負に占める割合は大きい。地力に加えて体力や気力など、そのときの自分がすべて試される。同じ相手とタイトルを懸けて、数か月にわたり何度も対戦するならば、よりその物語は濃くなる。
この物語のモデルは…
七月隆文『天使の跳躍』は、27歳の天才棋士に46歳の中年プロが挑む話だ。タイトル八冠を独占する源大我(みなもと・たいが)聖王に挑戦するのは、実力派の田中一義(たなか・かずよし)八段。これまでにタイトルに5回挑戦するも獲得はならず、相手の攻めを受け続ける棋風は「千駄ヶ谷の我慢流」と呼ばれる……。
そう、この物語は「千駄ヶ谷の受け師」こと木村一基九段がモデルになっている。木村九段は2019年、タイトル7回目の挑戦で初めて「王位」を獲得し、史上最年長の初戴冠46歳の記録を樹立した。最年少記録が「早熟」の証だとすれば、最長年記録からは長年にわたって第一線に踏みとどまってチャンスを実らせる「執念」が伝わってくる。
本音をさらけ出しながらも、笑いを取る
タイトル獲得直後のインタビューで誰よりも喜んでいるであろう家族への思いを問われると、目を潤ませて涙をぬぐい、いたずらっぽい笑みを浮かべながらかすれた声で「家に帰ってからいいます」と答えた。後日に行われた文藝春秋の主催イベント「観る将ナイト2019」では、その真相を次のように語っている。
「王位戦のインタビューで家族のことを聞かれて泣いちゃったのは、(対局中に食べる)この弁当を(奥さんが)作ってくれている姿を思い出したからなんですよ。私を置いて行ったトルコ旅行のことを思い出せば、泣かずに済んだのに。このへんが、まだまだ私の未熟なところで。(中略)しかも、宅急便が届くというので、家で待っていたんですよ。今度、家族のことを聞かれたら、この旅行のことを思い出して、泣かないようにしたいと思います」
本音をさらけ出しながらも笑いを取りにいくのが、「ウケ」を得意にする木村流。当日のイベントは涙あり、笑いありで大盛り上がりだった。