本書には、木村九段がいかにも飛ばしそうな冗談も

 本書も木村九段がいかにも飛ばしそうな冗談が散りばめられている。棋譜制作は木村九段が務め、渡辺明九段と飯塚祐紀八段が取材に協力した。タイトル戦でおなじみの名宿や呉服店に話を聞いたとあって、将棋界のしきたりやエピソード、ファンの盛り上がる様子が事細かに再現されている。

 芸術と美を愛することから「男爵」と呼ばれる青年。飛車を4筋に回るだけでファンを沸かせる振り飛車の大家。将棋ファンの方なら思わずモデルになっている棋士を思い浮かべてクスりとしてしまうだろう。

 ライトノベルを中心に発表してきた作家だけあって、甘酸っぱい話も展開される。とはいっても、対局の前の晩に奥さんと電話するなんてことはさすがに現実では……いや、あったのかもしれない。名人戦の大舞台で「勝ったと思って早く恋人に電話したいと考えていたら、集中できずに大逆転負けした」という棋士もいたぐらいだ。

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プロの世界は厳しい。「天使の跳躍」は、その答え

 藤井聡太は、17歳の史上最年少で初タイトルを獲得した際に、AIが棋士の実力を超えた中で人間が将棋を指す意味を問われると、次のように答えた。

「いまの時代においても、将棋界の盤上の物語は不変だと思います。その価値を自分自身、伝えられればと思っています」

七月隆文『天使の跳躍』(文藝春秋)

 本書は小説でその言葉に共鳴している。棋士は現役期間が長く、多くは20代でプロになって60代で引退する。筆者の感覚では、30代半ばからクラスが落ちるイメージだ。衰えは誰もが避けられない試練である。自分が自分でなくなっていく感覚を覚えながらも、自分を見つめなければ戦略を練ることはできない。

 戦いを職業にするさだめとはいえ、プロの世界は厳しい。そして、人は夢に触れてしまう。希望と絶望の平均台を歩いていくかのような緊張に充ちた日々は、ドラマティックでありながらも夢に甘噛みされる苦しさがあるだろう。だが、それを生ききったときにしか見えない世界がある。タイトルにもなった将棋用語「天使の跳躍」は、その答えだ。

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