母はとにかく、父に惚れていた
谷川 「母には父のかげに隠れていないでもっと自由を謳歌してほしかったのか」という質問ですが、現在の常識ではそう思うかもしれません。でも当時は夫がある程度の仕事をして世に名前が出ていれば、妻は夫に尽くすのが当然なことのように僕にも見えていたわけです。母自身も明治の女ですから、本当に世話女房をやっていました。父に尽くしたのは、とにかく父に惚れていたということもあると思うんですけどね。
内田 なるほど、惚れていたというのはよくわかります。
〈二晩もつゞけて、あなたの夢をみました。そして眼をさましてゐる時でも、私は、あなたの夢許ばかりみてゐます。今日も一日中私は何も出来ませんでした。いつも心の中であなたのお名をよんだり、あなたのお名前を書いたり消したりしてゐました。〉
〈三時四時頃やっぱりたよりなく逢ひ度たくなって、七度七分も熱を出してしまひました。〉
これらは結婚前のお手紙に書かれたことですが、こういうお母様の思いは日常の中でも感じましたか。
谷川 あまり感じませんね。
ひとり息子の谷川さんが誕生したのは、結婚8年目の1931年。実は徹三は多喜子さえいれば、多喜子は徹三さえいれば何も要らない、子どもは要らないという考えだったため、危うく堕ろされるところだったという。
多喜子の父が孫を欲しがったため、谷川さんは無事に誕生できた。そしていざ生まれてみると、多喜子は息子に一目惚れし、それからは夫より谷川さんに愛情を注いだ。
時を同じくして徹三には恋人ができていた。家を空けることもしばしばあったという。
母は近い存在であり、父は遠い存在でした。
内田 お母様はお父様にとことん惚れているところを俊太郎少年には見せまいとして、お父様には枯淡な態度を取っていたが故に、お父様の目が外のほうに向いてしまったということは?
谷川 そういうことではないと思うんですけどね。
僕はひとりっ子で、親との関係でいうと圧倒的に母親とのほうが密接でした。それが嫌だと思ったことはなく、むしろ自分には快かったんでしょうね。それで得たものといえばいいのか、失ったものといえばいいのかよくわからないけれども、親との人間関係ということは、あまり考えてなかったような気がします。
それは僕の感性の問題もあると思うけど、客観性みたいなものに気がつかないで、父親とも母親とも付き合っていたわけです。母は近い存在であり、父は遠い存在でした。そして父親は人間関係には冷たかったと思います。
内田 冷たいのに、人が嫌いなわけではないんですね。
谷川 どうなんだろうね。結婚してからも好きな女性が何人もできた人だったわけだから、人が嫌いではないんでしょうかね。