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縄張りを踏みこえて取材した社会部記者が見た「柚月裕子」の本質

〈私は三陸の出身だ。

 新日鉄の高炉が盛んに動き、町が活気に溢れていた頃に生まれた。(中略)

 三陸の人間は、津波の話を聞いて育つ。自分の祖父母や親類、先祖の誰かを必ず津波で亡くしているからだ〉(『ふたつの時間、ふたりの自分』《文春文庫》)

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 東北で生き抜こうという壮絶なる土着、そして眩しいほどの向日性である。

 柚月は二十一歳で結婚し、二人の子供を育て上げた。その後、山形市で池上冬樹が世話人を務める「小説家になろう講座」へ通い始めている。

 丈夫一式の体を備え、書かずにはいられない何かを自分の中に見つけたのだろう。やがて、地元タウン誌の手伝いで取材原稿を書いて、文章を読まれる喜びを知り、三十九歳で小説の執筆を開始した。人よりも胸の中の気圧が高いことに、はっきりと気づいたのだ。

 彼女の特質は、何事においても素人であることを恥じず恐れず、山形の小さな書斎を出て、興味の赴く闇へと出張っていくことだ。何事にも凝りやすく一途に譲らない人でもある。もし彼女が新聞記者など組織に属した人間であったら、あちこちで諍いを起こしていただろう。

小説で登場する手術支援ロボット「ミカエル」/画・日置由美子

 私が長い間生きた新聞記者の世界は縦割りで、縄張りにうるさいところであった。政治家は「政治部」、経済人と財界は「経済部」、警察や検察庁は「社会部」――などと仕事の領分が決められていて、私のようにそれを踏み荒らす社会部記者は上司にも疎まれた。

 政界や金融界の不祥事にからんで、玄人面した記者クラブの記者たちとぶつかるのはしょっちゅうで、囲碁界の異変をめぐって、編集局長に「文化部に相談しながらやるように」と求められ、文化部の囲碁記者と大喧嘩をしたこともある。

 情報に縄張りや聖域があるわけがないのだ。古参のクラブ記者は縄張りの内側を暴くことがない。書かざる記者であることで、聖域のムラの住民の一人となっているからだ。

 しかし、柚月が「作家になれたからには生き残りたい」という小説の世界は、何をやってもいいのだ。

 彼女は遅れてミステリー小説の世界に現れた。絶え間なくテーマを変え、全く知識のないところから、プロや専門記者が暴けない領域やヤクザの縄張りまで踏み込んで、十六年間書き続けている。生き方自体が痛快だ。

 その著書をざっと並べただけでも、彼女がいかに傷つくことを恐れない作家であるかがよくわかる。

 二〇一一年に東京地検特捜部を舞台にした『検事の本懐』(第一五回大藪春彦賞)を、二〇一四年に生活保護制度とケースワーカーを題材に『パレートの誤算』を、映画「仁義なき戦い」に衝撃を受けて、翌二〇一五年に悪徳警官小説『孤狼の血』(第六九回日本推理作家協会賞)を、二〇一七年には「映画『麻雀放浪記』と松本清張の『砂の器』を掛け合わせたような作品を書きたい」と編集者に頭を下げて、『盤上の向日葵』(二〇一八年本屋大賞二位)を書いた。