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「準備は、すでにできています」

 佐藤刑事部長に向かって、そう答えたのを覚えていた。しかし今は、考えないようにしようと思った。とにかく自室へ戻り、何が持ち込まれても鑑定できるように、準備にかかった。

「痙攣を起こしていたり、泡を吹いたりしています」

 緊急鑑定は、持ち込まれた資料から溶媒抽出という方法で原因物質を取り出し、分析機器にかけて同定する。一般に毒物は、水溶性、非水溶性、その中間の性質に分けられる。酸性・アルカリ性の液性によって、分解してしまうものもある。大切なのは、資料から対象物質をどのように抽出するか。抽出する溶媒は、鑑定人が各自の処方箋で調整するから、力量が問われるところでもある。

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 当時の私は、3種類の溶媒を用意していた。水に溶けやすい場合は、アルコールを主体としたもの。油性には、ヘキサン(ベンジンの主成分)を主体としたもの。中間の場合はヘキサンとクロロホルムの混合液に、状況によってアルコールを混ぜたものを主体とし、鑑定資料に応じて使いわけていた。分析機器は、ガスクロマトグラフ質量分析装置(通称ガスマス)だった。

 通常は、原因と思われる液体や固体が現場で発見され、慎重に持ち込まれる。発生した物質が気体である場合は、特殊な資機材がないと収集・運搬・分析は難しい。突発的な事態だったり被害者への対応に追われる現場では、気体の採取は不可能に近いといえる。

「急いで頼みます」

 9時5分ころだった。緊張した声と同時に、捜査員が駆け込んで来た。

 鑑定資料の受付は、若手の職員が行なうのが慣例だ。しかしこのとき、受付には誰もいなかった。部屋の責任者である管理官は、所長と一緒にすでに霞ケ関駅へ行っている。

 ビニール袋を差し出す捜査員と目が合った。自分が鑑定すべきとすでに決めていたので、自然に歩み寄った。

「お願いします。築地駅構内に停車中の、車両床面の液体を拭き取ったものです」

 受け取るが早いか、

「現場の状況はどんな感じですか。被害者の方々は?」

 と訊いた。鑑定に際し、少しでもいいから現場の情報を知りたかった。

「たくさんの人が咳き込んだり、うずくまったりしています。吐き気や、目や喉の痛みを訴えている人がほとんどです。症状のひどい人は、痙攣を起こしていたり、泡を吹いたりしています。心臓マッサージを始めている人もいます」

 一呼吸おいて、

「それから、みんな一様に『暗い暗い』と言っています。実は私も今、暗いんです。この部屋、電気ついてますよね? でも、夕方のように暗いんですよ」

写真はイメージ ©iStock.com

「ちょっと目を見せてくれる?」

 捜査員の目をのぞき込んだ。瞳孔がピンホールのように小さくなっていて、手で影を作ってもピクリとも開かない。

「縮瞳が起こってる。早く警察病院に行ったほうがいい」

 と声をかけて、捜査員を帰した。

 心肺停止の人がいる。泡を吹いているのは、肺水腫を併発しているためだ。骨格筋の痙攣を起こしている人もいる。そして縮瞳―。「有機リン系の毒物だ」と、直感的に思った。普段なら、有機リン系の毒物といえば農薬を想定するのだが、いやな予感が再び脳裏をよぎる。