モニター画面に映し出された〈Sarin〉の文字
さて、受け取ったビニール袋をどこで処理するか。通常、ガスが発生する毒物資料を処理する際は、ドラフトチャンバーを使う。壁面に設置された、上下スライド式のガラス窓が付いた小型作業装置で、内側に吸気装置が付いており、排気は無毒化されて屋外へ排出される。ドラフト内に空気が吸引されるため、室内に危険なガスは出てこない構造になっている。そこへ手だけ入れて作業する。
ところが、当時の警視庁科捜研にあったのは簡易ドラフトで、排気の無毒化装置が付いていなかった。しかも吸引したガスの一部が、廊下へ排出される仕組みだ。
「これじゃダメだ」
とっさの判断で、ピンセット、溶媒の入った共栓付き三角フラスコ、受け取ったビニール袋を持って、屋上へ駆け上がった。屋上に着いてからゴム手袋とマスクを忘れたことに気づいたが、部屋に戻る時間が惜しい。少し吹いていた風を背にして、息を止めて作業しようと決めた。
ビニール袋は三重になっていた。中には、薄黄色の粘性のある液体で湿った脱脂綿が入っている。1つ目のビニール袋をほどいた時点で、共栓付き三角フラスコをその中へ入れた。最も内側の袋を開くときは息を止め、長さ約30cmのピンセットで慎重に脱脂綿を摘まみ上げ、フラスコに入れて素早く蓋をした。
これで一安心。溶媒に溶かしてしまえば、ほとんど揮発しないのである。このあと、通常は薄層クロマトグラフィーなどで精製したのちに分析するのだが、時間がない。資料が汚染されていなかったことと緊急性・安全性を考慮し、そのまま分析装置にかける選択をした。
9時34分、ガスクロマトグラフ質量分析装置のモニター画面に、構造式と共に文字が映し出された。
〈Sarin〉
「やっぱり」と「なぜ」が交錯した。サリンの実物を見たことはないが、無色の液体とされている。分析では、サリンと共にN,N‐ジエチルアニリンが検出された。反応促進剤として用いられることもある物質で、脱脂綿に付いていた液体の薄黄色は、これが由来だと推定できた。
「すると不純物の混在した、精製されていないサリンか?」
通常の鑑定では、複数の分析・検査によって物質を特定する。しかし本件の場合、結果の特定は緊急を要する。危険性も高く、他の検査法を併用する余裕がなかった。そこで、資料の性状や被害者の症状なども総合的に踏まえ、サリンで間違いないと結論付けた。
一方で、同時多発的に起こっているとすれば、複数の者が関わっていることになる。日本にそのような組織が存在し、その組織の中にはサリンを生成できる人物がいることに驚愕した。
何よりも、誰が何のために……との思いが駆け巡った。
平成7年3月20日月曜日。地下鉄サリン事件の朝である。