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 ここで教師は大きな卵の模型を取り出し、自分の頭にぶつけて割った。子どもたちにはバカウケだ。しかしその続きを見ると、結局「殻は破るものではない」という“教訓”が子どもたちに残ったのではないかと思う。教師も子どもも殻に収まることが求められているのだろう。そこに私は小学校のある種の「息苦しさ」を感じた。

気持ちって一つにならなきゃいけないの?

 運動会で6年生が縄跳びの集団演技をする。その練習に集合するのが4分ほど遅れた。それを注意する教師の言葉。

「誰かが遅れた時点で先生は気持ちが一つになっていないなあというふうに思ってます」

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 気持ちって一つにならなきゃいけないもんなのかなあ。続けて、

「運動会の練習は、その過程で自分ができないことの壁をどうやって乗り越えようとしている過程でみんなは成長していくんです」

『小学校~それは小さな社会~』 © Cineric Creative / NHK / Pystymetsä / Point du Jour

 言ってることはわかるんだけど、乗り越えようとする課題は子どもたちが自ら選んだものではなく教師から一方的に与えられたものだ。できる子はできるし、できない子はできないということもある。私自身、小学校では体育が苦手で運動会は苦痛だった。映画の中の子のように逆上がりができなかった。それを助ける友だちの姿は救いだが、できない子にとって「できるように努力するのが大切」と言われても苦行でしかない。

 新入生を歓迎する新2年生の器楽演奏。その練習でタイミングが合わないシンバルの女の子に教師が「楽譜を見ないでもできるように練習しているんですか」とみんなの前で問いただす。ほかの児童は練習していると言われ女の子は泣き出してしまう。記事の冒頭で「私たちって何なんだろうねえ」と問いかけたのはこの子だ。そこに共通するのは、みんなに合わせるのがいいことだという同調圧力。こうして上の人の言うことに従うべきだという感覚が刷り込まれ、そこになじまない人間を排除するという空気が生まれると感じる。