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平野啓一郎×小川洋子「フィクションだけがもつ力とは」

他人の人生を生きる――『ある男』とは何者か

不遇な人生であっても

小川 『ある男』は、誰に感情移入するかが、読み方によっても違ってくると思うんですが、この里枝という女性がなかなか素晴らしい。小説は里枝が、自分の死んだ夫・谷口が実はこういう人だった、という事実を知った時点で終わっています。本当はこれからの人生、彼との3年9カ月の結婚生活をどう自分に納得させるかという長い時間が始まるんだけれど、そこは書いていない。しかし、彼女なら大丈夫だろうな、と安心できる印象を受けました。どこでそう感じたかというと、先に言ったように、彼女がバスセンターの絵を眺めて10代の自分はここにはいないんだ、と思って涙ぐむ場面と、もう一つ、最初の結婚の時に病気で死んだ次男について、その死を、過去の問題じゃなく、未来で自分を待っているものとして受け入れようとしているところ。最も愛する人たちが自分より先に死んでくれているんだ、というふうに過去を未来と結びつけている。これはすごい人だなと思いました。長男との関係のあり方も、この先に光が見えるような終わり方でした。

平野 よかったです。里枝を書くのはすごく難しかったんです。

小川 そうでしょうね。

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平野 小説だと、ちょうどいいぐらいの不幸の量とかを考えてしまいがちですが、現実には、立て続けに大きな不幸を経験しながらも、何とか自分を保って生きている人たちがいる。だから、不幸がいくつか続いて、でも生きているという女性をうまく書きたいと思いました。ただ小説でそれをやろうとすると、その人が精神的に厳しいところにどんどん追い詰められていって、という書き方になってしまいがちです。それも現実でしょうが、そうじゃない現実を書きたかったのと、小説の登場人物が経験する問題を、その人一代で解決させなくてもいいんじゃないかとも思ったんです。

小川 ああ、なるほど。

平野 不幸な経験をした人が、その人生の中でハッピーエンドを迎える、という場合もあるけど、ある共同体、自分たちの住んでいる世界で、息子の代、孫の代、あるいは関係した周りの人たちの人生で、それが違った花を咲かせていく、代を継いで何か別の結果を生み出すというようなかたちのある種のハッピーエンド、もしくはハッピーとは言い切れなくとも、未来が見えるような終わり方もあるんじゃないかと。里枝には息子がいて、彼もいろいろ自分なりに考えて、という未来が見えて、彼女の人生にも光が差すあたりで終わればいいかなと。

過去が変わり得るという可能性

小川 里枝に降りかかった不幸、不運を、彼女1人で解決できるわけもないし、解決できなければ幸せになれないわけでもない。今おっしゃったことのヒントになるような文章が、『マチネの終わりに』の中にありました。蒔野と通信社記者の洋子が出会ってパッと惹かれ合うのが、過去についてどう感じるかを話し合う場面。未来は常に過去を変えている、過去は繊細で感じやすいんだということについて言葉を交わして、共通するものを受け取り合う。あるいは洋子がイラク取材で負ったPTSDの治療を受けている時に、治っていく段階で「過去は変えられる」んですねと医者に言うシーン。それがそのまま里枝にも当てはまって、過去とは何かという問題とずっとつながっています。

平野 過去は良い方向にも悪い方向にも変わり得る可能性がある、不安定なものですよね。たとえばPTSDの治療にある認知行動療法は、ある過去の姿のまま固着しているものを、行動パターンを通じて違う見え方にしていく方法です。生きているのはいつも現在だけど、過去があって未来があってという中で、どう自分を整理していくのかというのが、僕の最近の関心事です。

小社ホールにて ©平松市聖/文藝春秋

 まだまだ続くこの対談では、それぞれの「空間の捉え方」や「小説の書き方」の違いの考察も語られています。続きは現在発売中の文學界10月号をご覧下さい。また試し読みや平野さんからのメッセージも読める『ある男』特設サイトはこちらからどうぞ。

ある男

平野 啓一郎(著)

文藝春秋
2018年9月28日 発売

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