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平野啓一郎×小川洋子「フィクションだけがもつ力とは」

他人の人生を生きる――『ある男』とは何者か

note

履歴を変えてでも生き直したい人

平野 おっしゃるように、普通なら履歴を交換している当人を主人公にするところですが、それではうまくいかないような気がしたんです。誰かの人生に共感してその人に成りすましている人に、さらにもう一段共感している人がいて、それにまた作者が共感して、その作者の考え方に読者も共感してというふうに、合わせ鏡のようにいくつか層があるほうが、他人に共感するということの意味合いのふくらみが出るんじゃないかなと。

小川 今、鏡とおっしゃいましたが、城戸が「ある男」を追いかけていくことによって、その正体が分かってくるとともに、城戸自身も自分が見えてくる。「ある男」が鏡になって、そこに自分がだんだん映ってくるという関係になっていますね。

平野 そうですね。小説はなぜそういうことができるんだろうという、僕の関心をうまくかたちにできたところはあります。読者というのは必ずしも自分と境遇が似ているから感動しているわけではなくて、むしろ違うから感情移入できる場合もある。これまで書いてきた小説の読者の反応も、今回の小説を書く上でヒントになっています。城戸は城戸で自分のルーツの問題や妻との関係のストレスがあって、自分の苦しみを自分の問題として直視して考えようとするんですけど、そうするとだんだん具合が悪くなってしまう。でも他人の人生を1回経由して考えると苦しみとか悲しみとかそういったものが、耐えられるような、何か少し違う感情に変わっていくということがあるんじゃないかと。

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弁護士にだって、どこか引っかかるような案件があるのでは

小川 城戸は里枝と谷口以外にもさまざまな種類の人間と出会い、彼らの存在理由の根本にかかわりながら、自分とは境遇が全く違う人々の中を探索してまた自分自身に戻ってくる、それを何回も繰り返しています。

平野 今回は弁護士にもだいぶ取材しました。彼らは悲惨な事例を弁護することもあります。例えば過労死事件。お子さんが過労死で亡くなって、ご両親も苦しんでいる……でも、それにかかわっている弁護士の人たちは必ずしもエモーショナルじゃない。ドライというほどでもないけど、あくまで法的にその問題を解決しなくてはいけないという態度を感じました。当然と言えば当然ですが。法律だけじゃなくて、第3者だからこそ適切にその問題を処理できるという点で成り立っている仕事だと思いました。それが彼らの普通だと思いますが、たまに、どこか引っかかるような案件があるんじゃないかなという感じがして、そのたまに引っかかった案件の物語、という作りになってます。

序文で言いっ放しにする効果

小川 平野さんが慎重なのは、それをさらに「私」という小説家がバーで聞いて書いている小説なんだという、もう1段鏡を置いていて、その序文からはじまるところです。

平野 今の読者に、どうリアリティーを提示するのかということをよく考えるんです。べったり現実と地続きの小説だと読む気がしなくなるし、どこかで非日常体験をしたいという感覚は読者の中にあると思う。そこをどううまくつなぐか。一旦廃れてしまった伝統ですけど、19世紀~20世紀初頭の小説には、名作と言われるものにはよく序文が付いていますよね。

小川 「これは聞いた話だが」みたいな。

平野 サルトルの『嘔吐』とか、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とか、序文がついているものが好きなんです。作者が書いているような序文だけど、それ自体もどこまで本当か分からない。また、あとがきはついていない。

小川 序文で言いっぱなしで、その人はそのまま退場していく。

平野 実はこの『ある男』も、最初はあとがきを付けていたんです。

小川 もう1回バーにいる「私」が登場する、という選択もありますね。

平野 はい、そういうのを書いたんですけど、やっぱり余計だなっていう感じがしたんです。だから、序文で書きっぱなしにした。

小説だから許されている仕掛けをどう生かすか

小川 そういう書き方だと、読者は城戸と一緒に肩を並べてこの世界を歩くのではなく、城戸の後ろにいる「私」という作家と一緒に小説世界に入っていって、出口まできたら、もうその案内人の「私」はいなくなっていたという感じになる。そのほうが、読者が感じる余韻もより深いですね。

平野 物語と読者との距離感をどう設定するのかということを最近かなり気にしています。フィクションの世界を読者が受け止める時に、どうしてもそれまで読んだ小説や身近な人物から、リアリティーを判断しがちだと思うんです。だから、いっそのこと序文で「これは実際にあった出来事だけれども、作家が小説に仕立て直したんだ」と宣言しておくと、読者は細かなところで「ちょっと作りものっぽい」というふうに引っかからずに、事実を小説風にアレンジしているんだろうな、と了解しながら読んでくれるという期待があります。

小川 小説にしかできない、小説だから許されている仕掛けをどう生かすか、それが問題です。

©平松市聖/文藝春秋

平野 そうですね。『ある男』は、取材させてもらった何人かの弁護士にも事前に読んでもらって、違和感を指摘してもらったんですが、やっぱり、弁護士にとっては、守秘義務というのがすごく大きいようですね。

小川 そこを気にされるんですね。

平野 はい。草稿の段階だと、城戸が守秘義務違反を犯している感じがすると。ただ刑事ドラマでもそうだけど、それをいったら小説が成り立たなくなる。だからみなさん口をそろえて「それは小説だからいいんじゃないですか」という言い方をしていた。それで、その感覚をそのまま序文に入れたんです。実際には城戸はここまではしゃべらなかったと思うけど、小説としてそういうことにしたと書いたんですね。そうすると、リラックスして読めるかなと。手直ししたところもありますが。

小川 心の内の声を書くことが守秘義務違反になるのかどうか。心の内を言葉にしているんだ、それは構わないんだ、と先に書くことで、余計なストレスから解放されます。

平野 今の読者は、長い導入部分をなかなか楽しめなくなってきていて、物語に入っていくまでのこらえ性がなくなっている。さきほど挙げたような19世紀の大きな小説は、導入がすごく長くて、起~、承~、転、結、みたいな書き方ですけど、今は、誰が主人公かというのがまず分からないと迷ってしまう。だから序文で「誰と誰の話です」とガイドを付けておく意味もありました。実際、昔の小説もそれをやっていたわけですから、ひとつの機能として有効だと思います。