「マイノリティの選別」という新たな困難が
ハーバーマスの話が90年の序文のところで終われば、「新しい市民のネットワークは素晴らしい、市民の公バンザイ!」で一件落着だったろう。しかしそんなハッピーエンドは現実にはまったく用意されていなかった。いまやもっと困難な新しい事態が起きている。
それがなにかといえば、たとえば過剰なポリティカル・コレクトネス(ポリコレ、政治的正しさ)の世界的な蔓延であり、それと表裏一体の「マイノリティの選別」である。アメリカでは人種差別や性差別については過剰なまでに正しさが求められている一方で、格差が進む中でたいへんな目に遭っている貧困層の白人は黙殺されて、その怒りがドナルド・トランプ大統領を誕生させた。
これはアメリカだけでなく日本でも同じようなものだ。日本ではジェンダーや障害者、在日差別、シングルマザー、生活保護家庭などへの差別がさかんに問題にされる一方で、福島県民は「汚染した土地にしがみつく人たち」と打ち捨てられ、オタクは「気持ち悪い」と差別され、キモカネおっさん(キモくて金のないおっさん)はまったく無視されている。
欧州では、リベラリズムの国でイスラムを揶揄するような漫画が新聞などに掲載され、それが「表現の自由」だとして擁護されている。イスラムの人たちはマイノリティじゃないのだろうか?
個人の好き嫌いで排除される
「庇護されるべきマイノリティ」への差別は強く批判され、それへの批判は「表現の自由」でさえも制限されて良いというような意見が出てくる。なのに「排除されたマイノリティ」への差別は看過され、それへの批判は「表現の自由」として擁護されることさえある。これはいくらなんでも不平等ではないか。
私は、あらゆるマイノリティの権利は保護されるべきだと考えており、選別されるべきではないと考えている。すべてのマイノリティが救われる世界は遠いのは事実だけれど、少なくともそこに不平等や排除が存在していないのかについて、常に意識を働かすべきだと思っている。しかし現実には、そうなっていない。ひどい場合には、個人の好悪の感情(オタクは気持ち悪い、など)だけで選択が行われてしまっている。
そういう中で、市民の公は揺らいでいる。いや、揺らいでいるというよりは、もともと「市民」「公」というものに内在していた矛盾が、21世紀になって露呈してきたという方が的確だろう。
「市民」とは誰か? 選ぶ基準はどこに?
このような状態では、今一度、次のふたつの問いかけに立ち返らなければならない。
第一に、「市民」とはいったい誰のことを指しているのか? 排除や選択はそこに存在していないか?
第二に、「市民の公」があるとすれば、そこで「選ぶ」「選ばない」や「表現の自由は守られる」「表現の自由は制限してもいい」という基準は、どのようにして誰が決めるのか?