新手を生み出し、ヘビースモーカーで大酒飲み――逸話を多く残した伝説の棋士・升田幸三(1918〜1991)。棋士の桐谷広人八段が弟子から見た師匠の姿を語る。
私が生まれた1949年当時、升田幸三は将棋界の大スターでした。名人戦をめぐって大山康晴名人とライバル関係にあり、1957年に史上初の三冠(名人、王将、九段。当時はタイトルが三つのみ)を達成してからは現代でいう藤井聡太名人のような人気者となりました。
広島に育った升田は、13歳の時に「名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書き置きを母に残して家出し、のちに大阪の木見金治郎に弟子入りします。しかし、21歳で陸軍に入隊、ポナペ島のジャングルで過酷な経験をします。戦後しばらく復員服姿で将棋を指した升田の、トレードマークである長く伸ばした口ひげは、寒がりな彼なりの風邪対策だったようです。

升田と同じ広島出身の私が棋士を目指したのは、高校生の時に『赤旗』主催の大会で中国地区代表になったのがきっかけ。大会審判長を務めていた市川一郎八段に「升田幸三の弟子になればいい」と声をかけられ、1968年に弟子入りしました。
当時の師弟関係は封建的で、師匠のために、ただ働きをしなければいけない風潮がありました。たとえば、企業の将棋部に師匠の代わりに稽古をつける代稽古。それなりの謝礼を貰えるのですが、慣例的に謝礼は師匠に渡すことになっていた。ところが、升田には弟子から謝礼をピンハネするような考えはなかった。実家が貧しく、仕送りもなかった私には生活の助けになりました。また升田は、弟子に身の回りの面倒な世話をさせるようなこともなかった。将棋に集中できるという点でも師匠に恵まれたと思います。

「1日酒2升にタバコ200本」との逸話もあり、野武士のような風貌。一見、とっつきにくい印象を抱くかもしれませんが、人懐っこい性格で多くの棋士に愛されていました。
升田は「新手一生」を標榜し、「急戦矢倉」や「ひねり飛車」など新たな手を編み出すことに人生を費やしました。数々の戦法の名付け親として知られる早稲田大学出身の棋士・加藤治郎名誉九段をして、「将棋の寿命を縮めた」とまで言わしめました。つまり、何十年もかけて編み出されていく新手が升田によって短期間で誕生したのだ、と。
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