読書家の母との対話が新芥川賞作家を生んだ
石沢さん
〈授賞のことば〉
言葉が生々しく、遠いものと感じられる。パソコンの画面の向こうから届く声や言葉は鮮やかではあるが、私がいる場所はとても静かなままだ。空気を伴わない言葉は現実感に乏しく、私の口が発するものも同じことになっているのではないか、と不安がよぎる。
小説は私を遠くへ連れてゆくが、それは書いている間だけだった。書き上げたものが、まさかこれほどまで私を遠くへ運んでしまうとは思わなかった。そこには、私の言葉を受け止め、気流に乗せてくれた人たちの姿がある。本という形にして送り出してくれた人たち。そして、それを手にとってくれた人たちもいる。その人たちに、言葉が出会えたことが何よりも嬉しい。今書くことに対して、より深く激しい思いがある。これが私の現実感を象る。さらに遠くへ、書き続けたい。
〈略 歴〉
1980年生まれ。東北大学大学院文学研究科修士課程修了。2021年、本作で第64回群像新人文学賞を受賞しデビュー。
落ち着かないときは本棚の整理を
――受賞作はドイツが舞台ですが、石沢さんも現在、ドイツに住んでいるそうですね。
石沢 はい。以前は小説の語り手と同じドイツ中央部の街ゲッティンゲンに住んでいましたが、現在はドイツ・ロマン主義の文学者たちに縁のある街にいます。
受賞の連絡をいただいたのは朝10時ごろです。本棚から本を出して、並べ替えているときでした。落ち着かないときは本棚の整理をするくせがあるのです。受賞を知らされたときは、驚いて、積み重ねていた本の山を倒してしまいました。
――1980年、宮城県仙台市生まれとのことですが、ドイツへ住むことになった経緯を教えてください。
石沢 仙台で生まれ、小学校から大学院まで、ずっと仙台で過ごしてきました。
大学院では西洋美術史を専攻しました。研究範囲は16世紀前後のドイツ・ルネサンス美術で、2013年の秋から1年間、ゲッティンゲン大学へ留学しました。1度、帰国して、2015年11月から再び渡独したので、いま6年目になります。
――ずっと暮らしていたので、東日本大震災を仙台で経験されているわけですね。この点は後ほどお尋ねします。まずは小説を書くようになった契機から教えてください。
石沢 「書く」という行為自体は小さい頃から始めていました。小学生の頃に詩や物語を書いたり。これは母の本を読むようになったことが、確実に影響していると思います。
小さな頃から本が好きで、『赤毛のアン』や『秘密の花園』『あしながおじさん』など児童文学もたくさん読んでいました。小学校の図書館もよく利用していましたが、あるとき借りた本を開いたら、鼻血なのか血の跡がいっぱいついていた(笑)。それで怖くなって、本は読みたいのに図書館からは借りられない。どうしようと考えていた時に思いついたのが、私の部屋の本棚に置かれていた母の本だったんです。
そこで、まだ小学校の低学年だった私でも手が届く、低い段に並んでいた詩集を少しずつ読み始めました。中原中也、萩原朔太郎、バイロン、ゲーテとか。やがて本棚によじ登るようにして、文庫本の背のタイトルを眺めるようになり、9歳のころ落合恵子さんのエッセイに出会いました。すると母が、三浦綾子さんや原田康子さん、吉本ばななさん、宮沢賢治などの小説を勧めてくれました。母の本が私の読書傾向を決めたようなものです。夏目漱石もプレゼントしてくれましたし、高校生の時、母がかつて授業中こっそり読み耽ったというスタンダールの『赤と黒』のほか、「絶対に好きだと思うよ」と、安部公房と倉橋由美子、高橋たか子の本を渡してくれました。
ゲッティンゲンの街並み
読書好きの家で育つ
――お母様と本の話をすることも多かったのでしょうか。
石沢 そうですね。母も若い頃から読書家でしたし、例えば文学や社会において女性がどのようなイメージを与えられてきたのかというテーマにも関心があったようです。『罪と罰』のソーニャや、『風と共に去りぬ』のスカーレットの生き方とは、といった話をしたりしました。
いちばん笑えるのが「カラマーゾフ事件」です。『カラマーゾフの兄弟』の新訳が出たとき、母は夢中になって読んでいました。このころ私は大学院生で、ある夜、バイトから帰ってくると、母が「ちょっといい?」と、深刻な顔をして、私の部屋へ入ってきたのです。何が起きたのかと身構えたら、「ねえ、やっぱり犯人はミーチャなの?」「それとも、スメルジャコフ?」と、すごく探りをいれてくる(笑)。母が読んでいた箇所を確認して、「あとこれぐらいで分かるから、もうちょっと我慢して読んで」と言ったら、「まさか、イワンなのかしら?」と、つぶやきながら部屋を出ていきました。
いま母の話ばかりしましたが、父も、妹も読書好きです。歴史や社会問題を扱った作品などを、よく読んでいますね。
――これまで読んできた中で、影響を受けた作家は誰でしょうか。
石沢 それは……古典も含め、挙げるとなると本当に多くなります。私が書きたいタイプの作品の傾向、「記憶と過去の問題」や「幻想と現実の問題」でいえば、漱石や内田百閒、泉鏡花、久生十蘭とか。埴谷雄高の『死霊』も好きですし。
海外の文学を読むほうが多いので膨大なリストになるのですが、敢えて挙げればゼーバルト、リルケ、ホーフマンスタール、ヘルマン・ブロッホ。インゲボルク・バッハマンもすごく好きですし、当然、カフカも……ドイツ語圏の作家が多いかな。南米文学もよく読みますが、絞るのならボルヘス、コルタサル。ロシアではドストエフスキーも好きですが、ブルガーコフも。他にも、アントニオ・タブッキ、フェルナンド・ペソア。あとはイサク・ディーネセン、ヴァージニア・ウルフ、マルグリット・デュラス。このあたりが私にとって非常に大切な作家です。
ドストエフスキー
沈黙が言葉を育てた
――幅広く読みつつ、ご自身でも小説を執筆していたわけですか。
石沢 そこは少し面倒な話になります。先ほど言ったように、小学生の頃から書き続け、大学ではひまを見つけて書いたり、非常にお世話になったドイツ文学研究の先生が物語論やテクスト構造の研究もされていたので、ゼミに参加したり。その先生に書いたものを見せたら、強く後押ししてくださいました。そして、読書好きの友人たちの存在も大きいです。彼女たちは読書量が多いだけに、私の文章の長所と短所をすぐに見抜いて、指摘してくれました。
このように20代半ばまでは、作品として完成させたわけではなく断片的ではありましたが、書いていました。でも大学院へ進んでから、大きなブランクができたのです。
まず書く時間がなくなりました。というのも、私は院へ進むとき、学費や研究、留学の費用は自分でまかなうと決めていたので、死にそうになるくらいアルバイトをしなくてはなりませんでした。
塾講師としてほぼ毎日働きつつ、大学では研究という生活を送っていたので、読書の時間をとるのが精一杯でした。睡眠時間を削って、本を読み続けたので、慢性的に寝不足で、書く方に気が向かいませんでした。
もう1回、書いてみようかと考えたのは、2019年の夏ごろですね。
――2度目のドイツ滞在が始まってから4年近く経っています。
石沢 ええ。ドイツへ2回目にきたときは、母国語である日本語に対して、色も匂いも舌ざわりもないと感じるほど、疲れ果てていた状況でした。そこでドイツ語を学びながら、日本語の感覚を育て直すことになりました。2つの言語が別々に成長するのではなく、植物のツルのように絡み合いながら育っていったという感じです。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2021年9月号