「憤怒」から生まれた経済理論
近年、経済学者・宇沢弘文を再評価する機運が高まっている。新古典派経済学が見落とした格差拡大や公害、環境問題に早くから注目し、そこから生み出された経済理論が、半世紀の時を経て、現代を突き刺しているというのである。宇沢は、なぜ卓越した先見の明を持てたのか。なぜ20世紀の世界は、彼を十全に評価できなかったのか。本書は、宇沢の生涯と学問のエッセンスを、コンパクトに提示する。
1928年に生まれた宇沢は、日本が戦争への道を突き進む中、軍国主義に強く反発した。一方で、数学にのめり込み、敗戦後、東京大学理学部数学科に入学。途中で専門を経済学に転換し、マルクス経済学を経て、近代経済学の道を歩んだ。
そこで出会ったのが、気鋭の経済学者ケネス・アローだった。彼の論文をむさぼり読んだ宇沢は、手紙と論文を送った。すると、スタンフォード大学からの招待状が届いた。
宇沢は並み居る俊英が競い合う中、33歳で「宇沢二部門成長モデル」を発表し、頭角を現した。アメリカで名が知られるようになった一方、宇沢自身はアメリカ経済学のあり方を根本的に疑いはじめた。
1961年にJ・F・ケネディが大統領に就任すると、経済学界の若き秀才たちは、次々に大統領直属の経済諮問委員会にリクルートされ、メンバーになった。新古典派経済学の学者たちは、自分たちの学問の普遍性を疑わなかった。どのような国の経済に対しても応用可能だと主張する学者に対して、宇沢は「経済はそれぞれの国ないしは地域の自然的、歴史的、社会的、文化的諸条件によって大きく規定される」と主張し、新古典派の分析の限界を指摘した。ケネディ政権の外交を批判すると、同僚から「君は共産主義者なのか?」と問われ、間髪入れずに「Yes, of course」と答えた。
宇沢は35歳でシカゴ大学の教授に就任する。しかし、シカゴ大学はミルトン・フリードマン率いる「市場原理主義者の牙城」で、宇沢の立場は対極にあった。ここで若手理論家を結集させ、「ウザワ・ワークショップ」と呼ばれる「もうひとつのシカゴ学派」を形成していった。しかし、ベトナム戦争にのめり込むアメリカに憤りを募らせ、1968年、日本に帰国した。
日本に戻った宇沢は、水俣病をはじめとする公害に直面する。彼は日本全国の公害の現場を訪れ、被害者や地元住民から丹念に話を聞き取った。そこで抱いた「憤怒」が「社会的共通資本」という概念を生み出す。インフラや社会制度だけでなく、大気や森林、土壌などの自然環境も経済活動を支える社会的装置であると見なした。水俣病は漁師たちが大切な財産として守ってきた海を、チッソが自分勝手に使っていい自由財として扱ったことに起因する。自然も重要な「資本」であり、経済分析の理論的枠組みの中に入れ込まなければならない。
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