国内で感染が確認されて3年、政府は新型コロナウイルス感染症を5類へ移行することを決定した。この3年間、「感染症とは何か?」「それに対して医療は何ができるのか?」といったことを、医師として、研究者として考えてきた。
新型コロナウイルスがパンデミックを引き起こしたとき私たちが最も驚愕したのは、100年以上も前と変わらない「隔離」しか有効な対策がないという事実であった。各国は人々の行動を制限し、こぞって都市を封鎖。しかし感染拡大を止めることはできず、そうした対策に、多くの人が孤独に苛まれ、絶望した。
感染症が恐れられてきたのはそれが「うつる」からだ。エドガー・アラン・ポーは1842年に短編小説『赤き死の仮面』を発表し、感染(うつること)の恐怖とそれを防ぐことの難しさを描いた。ポーの短編では、赤き死は感染すると、めまいが起こり、身体のあちらこちらが痛み始め、発症から30分で出血死に至る。王と貴族たちは感染を免れるために城奥深くに引きこもるが、最後は、王が開いた仮面舞踏会に見知らぬ人物が紛れ込み、死に倒れる。見知らぬ人物がまとった仮面は、死後硬直を模した不気味なものだった。顛末は別として、王がとった方策(隔離)は長い歴史のなかで人類がとりうる唯一の感染症対策だった。
1665年秋、イングランドの小さな村イームは、ペスト(黒死病)患者が出た時点で、村人全員が自発的な隔離を行った。接触を避けるために、ミサは教会ではなく野原で開き、死者は家族だけで埋葬した。それは共同体としての絆を断ち切る行為でもあった。なかでも村人が下した最大の決断は誰も村外に出さず、誰も村内に入れないという自己隔離だった。1666年12月の患者を最後として、イームでのペストは終息したが、村人のうち260人が亡くなった。生き残ったものはわずか83人に過ぎなかった。イーム村の決断は、近隣への感染を防いだと称賛されたが、小さな村でペストが流行すると村全体が焼き払われることさえあった当時、自己隔離は究極の選択だった。
史実はいくつかのことを教えてくれる。
第一に、ペストのように致死性の高い疫病の場合、隔離は、隔離されなかった側の人々にとっては称賛すべき英断でも、隔離される側の人間には死を意味するものであったこと。第二に、当時のペスト(感染症)が個人にとっての厄災であると同時に、社会や共同体にとっての厄災であったこと。だからこそ人々は、感染症を社会に対して下される神の怒りだと考えた。あるいは、悪魔の手先となってペストを広げた集団としての誰かがいると。それが社会に分断をもたらした。矛先はユダヤ人や少数民族、あるいは社会的弱者に向けられた。中世ヨーロッパのペスト流行期における最初のユダヤ人大量虐殺は、スイスで起きた。流行開始からほどない1348年9月のことだった。
近代に入り、感染症対策は3つの分岐点を迎えることで前近代のそれと一線を画すものとなった。
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source : 文藝春秋 2023年4月号