自己懐疑の果てに見出された「伝統」
近代日本の保守思想は、小林秀雄、福田恆存、江藤淳など、主に文芸畑の知識人によって担われてきた。が、80年代、そこに社会科学の側から「伝統」を語る一人の男が登場してくる。西部邁である。
では、なぜ80年代、社会科学を背景にした保守思想家が登場してきたのか?
逆説的な答えになるが、それは、高度経済成長を経て、すでに自明な「伝統」が日本人のなかから失われてしまっていたからにほかならない。が、西部邁自身が度々指摘するように、科学的な合理性もまた、それを徹底すればするほどに、自らの拠るべき前提としての「伝統」を、すなわち「物事をあらかじめ方向づける力」の見定めを必要とするのである。その点、経済学を徹底した西部が、そのイデオロギーの果てで「伝統」の必要を語るようになったのは、むしろ当然の帰結だったと言うべきなのかもしれない。
かくして、西部邁が自らの先行者として見出したのが、西欧における自己懐疑の系譜――つまり、本書が語る「保守の源流」としての「思想の英雄たち」だった。
そこには、バーク、トックヴィル、チェスタトン、オルテガ、エリオット、オークショットなどの保守思想家はもちろん、一般には「保守」とは見做されないキルケゴール、ニーチェ、ホイジンガ、ヤスパース、ヴィトゲンシュタイン、ハイエクなどの思想家も含まれていたが、それは、まさしく西部邁が、保守の源流を西欧近代の「自己懐疑の流れ」に見出そうとしていたことを示している。
しかし、だからこそ西部は、西欧近代を気取りながら、そこに育まれた自己懐疑の精神に学ばない日本の知識人を、つまり、近代の表面を上滑った挙句にアメリカニズムを信奉し、合理の枠組みに依存しながら、そこに閉じこもる専門人=大衆人を徹底的に批判したのだろう。
その上で、西部は、私たちの自然な「国柄」(ナツィオ)を見出すための道筋を具体的に提示する。すなわち、米国との距離を測るための「離米」、アジアを自覚するための「近亜」、そして、西欧の自己懐疑の精神に学ぶための「経欧」と、静かな自己認識としての「帰日」である。
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source : 文藝春秋 2024年6月号