コロナ禍の日本も照らし出す
高度経済成長が絶頂を迎えていた1970年、福田恆存は「塹壕の時代」という講演のなかで、ついに保守も革新もなくなって「無自覚な羊の群れ」の時代が来るだろうと語っていた。敵が消え、それゆえに理想が曖昧になり、人間がダメになる時代、それが現代なのだと。
だが、その実態を日本に40年も先駆けて予言していた本があった。1930年に刊行されたオルテガ『大衆の反逆』である。本書は、保守の「敵」が、階級闘争を訴える19世紀型の革新左翼から、近代教育と経済的繁栄を享受しながら、その安逸さのなかに眠りこける20世紀型の「大衆」へと切り替わったことを告げる大衆社会論の嚆矢である。
まずオルテガは、「大衆」を「密集の事実」から観察する。つまり、故郷を抜け出して都市に集住するようになった根無し草、これが「大衆」の原型なのだが、20世紀の産業技術の恩恵に与(あずか)るようになった彼らは、単なる故郷喪失者である以上に、近代システムに甘え切った存在でもある。要するに、何の義務も果たすことなく、濡れ手で粟で「物質的容易さ」を手に入れた彼らは、自分が誰にも従属=依存することなく生活できる人間、無限の可能性をもった安全で完璧な存在であると思い込むようになるのだ。そして、それゆえにオルテガは、技術文明に寄り掛かった大衆人の性格を、「自己満足」と「自己閉塞」、そして「忘恩」として定義づけることになるのである。
しかし、だからこそ、いざという危機において、空っぽである「大衆」が飛びつくのは、「みんなと同じ」であるという事実か、その「みんな」を効率的に囲い込むことのできる「専門家」か、そのどちらかにならざるをえないのだった。そして、この大衆的欲望の極まったところに出現するもの、それが、ゴミ溜めの世話まで焼いてくれる巨大な官僚機構、機械と化した全体国家なのである。
ところで、この現象は、そのままコロナ禍において示された現代日本人の行動様式そのものではなかったか。実際、コロナ自粛の評価において、リベラルと保守とを分ける意味はなかった。その態度を決めたのは、むしろ、医学的な「専門知」に依存しきった「凡俗なる生」か、他者との絆を守ろうとする「高貴なる生」か、という違いだったように見える。
オルテガは言う、「大衆は…、自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいるのだ」と。古びない古典とはこういうものである。
「『保守』と『リベラル』のための教科書」は浜崎洋介、與那覇潤の2氏が交代で執筆します。
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