人は必然性のうちに生きている
福田恆存の「保守」の凄みはどこにあるのか。それは、福田が決して「人間」から離れなかった点にある。その意味で言えば、福田恆存の文学・芸術論は認めるが、その政治論は認めないなどというのはナンセンスである。福田の言葉は、常に一つの人間観から発されていたのであり、その人間観に頷くということは、〈人は保守的にしか生きられない〉ということに頷くことなのである。少なくとも、私の場合はそうだった。
では、福田恆存の人間観とはどのようなものだったのか。それは、福田の主著である本書に明らかだろう。平和論争の中で保守反動の汚名を着せられた福田は、自らの人間観によって、進歩派に応答しようとするのである。
その冒頭、福田は言う、「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ……生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ」と。
しかし、その必然性は、自然に任せるだけでは実現しない。そこで求められるのが「演戯」である。なるほど、日本人は芝居がかった振舞いを嫌う。が、それは「演戯」が悪いのではなく、単に日本人の「演戯」が下手なのである。全体のなかの適切な位置を探り、醒めつつ踊り、踊りつつ醒めながら、「特権的瞬間」(サルトル)の到来を演出すること。そこに自分自身の「宿命」の劇を仕上げるための「演戯」が呼び出されるのだ。
が、人一人の力で、「宿命」を作り出すことは可能なのか? 部分である個人が、己の「死」を先取って、「全体」を調整することなどできるのだろうか?
そんなことはできはしない、と福田は言う。しかし、だからこそハムレットに託してこう続けるのだ。私たちは、個人の限界で、私たちに与えられているところの「死」を信頼するほかはないのだと。そして、それは「生と死」という全体を造形している「自然」を信じることであり、その「自然」を型取った祭日とその儀式に従うことなのだと。その「型」を引き受けてこそ、私たちは、私たちの必然感――宿命感を蘇らせるのである。
この人間観の延長に、福田恆存の「保守」もあった。が、それなら、「保守」は、政治イデオロギーであるより前に、一つの思想、一つの「生の哲学」だと言った方が正確ではないか。近代日本の保守思想、それは、この一冊から始まった。
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