小林秀雄の「恋」と言うと、中原中也と女優・長谷川泰子との三角関係も手伝って、「あの小林秀雄にも甘酸っぱい青春が……」というのが平均的な反応だろう。が、この「恋」が、小林の批評人生に与えた影響は、実は大きい。後に、小林は「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」(「Xへの手紙」昭和7年)と書くことになるが、長谷川泰子との「恋」は、まさしく、小林の批評の重心を「書物に傍点をほどこ」す意識から、その意識の外にある身体的な直観へと導いて行くのである。
小林秀雄が長谷川泰子と出会ったのは、ちょうど東京帝国大学文学部仏文科に入学した頃だった。友人である詩人の富永太郎の紹介で、京都から上京してきた中原中也と、その恋人だった長谷川泰子に出会ったのだった。「人は他者の欲望を欲望する」(ジャック・ラカン)と言われるが、このとき小林秀雄が取り憑かれたのも、まさに中原中也という「他者の欲望」、つまり〈中也の女〉に対する欲望だったと言っていいだろう。
とはいえ、そうした欲望は、しばしば観念的に加速しがちである。
出会ってから半年後、泰子を伊豆大島旅行に誘った小林は、品川駅で泰子を待つものの女は現れず、絶望して、一人大島で自殺をしようとまで思い詰める。が、帰京後、盲腸炎で入院していた小林を見舞いに訪れたのは泰子だった。泰子も泰子で、東京育ちで繊細な小林に、中原とは違う魅力を感じていたのである。
そんなドタバタから始まった同棲生活だったが、それが、その後2年半に渡る小林秀雄の「シベリア流刑」(長谷川泰子『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』)の始まりだった。
もちろん、「シベリア流刑」というのは、その貧乏生活ゆえのことではない。それ以上に、2人の生活を僻地へと追いやったのは、泰子の不安神経症だった。
広島女学校を出て後、20歳の時に家出をして上京。その直後に関東大震災に襲われ京都に避難。京都の表現座で女優をやっていたところで中原中也と出会ったというグレタ・ガルボ似の女は、言ってみれば、近代日本が生んだ「根無し草」だった。
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source : 文藝春秋 2023年7月号