4年に1度のオリンピックは、各種競技の用器具類や技術の進化を世界に向けて発信する場でもある。オリンピックの華と呼ばれる陸上競技の歴史では、用器具の進化がまず思い浮かぶ。1964年の東京大会はアンツーカーと呼ばれる排水性のよい土のトラックだったが、以後は全天候型のタータントラック。スプリント発走時使用のスターティングブロックの考案は1927年、それ迄は小さなスコップで地面に穴を掘り、足の支えとした(皆が自己流に掘るため地面は緩く、足元に「保証」は得られなかった)。棒高跳の棒は、木製から竹となり、スチール、グラスファイバー、カーボンファイバーと進化した。1906年、竹で3m90を跳んだ少壮外交官の藤井實が21世紀のポールなら如何ほどのレコードか、と想像が膨らむ。
陸上競技の新技術も世界を一驚させてきた。その嚆矢は1896年アテネで開催された第1回大会の100m走の場だろう。決勝のスタート直前を写したという一葉の写真(https://olympics.com/en/news/6-april-1896-the-100m-opens-the-first-olympic-games-of-the-modern-era)が伝わる。5名中1人だけクラウチングの構えをとり号砲を待っている。肌寒い4月、長袖を着てスタジアムに詰めかけたギリシャの観客は、この見慣れぬ姿に目を見張ったであろう。
ギリシャ人に奇異に映ったこのスタート法は、しかしながら、米国では普及済みだった。クラウチングスタート「誕生」の経緯には諸説あり、偶然しゃがんだ姿勢から出走してみると意外と速かった、というのがおそらく真相だろう。豪州選手がカンガルーを真似て始めたというのは面白そうだが俗説に過ぎない(当該アスリートの回想記事で検証可能)。
それ以前に用いられていたダブ(dab)スタートは、両脚を前後に開いたスタンディングの構えから号砲ののち重心をかけた前足を地面から少し持ち上げ前に倒れ込み、そこで生まれる初速度を得て走り出す理屈だったが、前足を上げるタイミングを測りつつ号砲を待つ際、バランスを崩しやすかった。両手両足を地面につけて構えるクラウチングスタートはこの欠点を見事に克服した。
アテネの100m走の写真は「決勝」とされるが、疑問が生じてくる。公式記録集には、予選は3組実施、米国勢3名は決勝進出と記載がある。うち1名は直後の110mハードル走に備えて決勝を棄権したので、決勝では米国勢2名がクラウチングの構えをしているはず。ちなみに、その前年1895年ニューヨークで開催された事実上の英米対抗戦(ロンドンアスレチッククラブvs.ニューヨークアスレチッククラブ)の100m走では、各国2名計4名の走者はみなクラウチング法を用いた(英国はアテネ大会には個人として参加。100m走に出た走者はロンドンアスレチッククラブの所属ではなく予選で敗退した)。ではこの1枚の被写体は何か、については稿を改めたいが、深く検証せず「アテネ大会決勝の一枚、奇抜なスタート法に世界は仰天」ふうなキャプションを添えるのは勇み足だろう。
オリンピックで披露された陸上競技の新技術として、クラウチングスタートに続くのは何か。1968年メキシコ大会の男子ハイジャンプで米国のディック・フォスベリー(Dick Fosbury)が、背中からバーを越えるフォームで金メダルを手にした。それ以前、ハイジャンプは正面跳び(シザーズジャンプ)、腹部を下にしてバーを跳び越えるベリーロールと進化していた。フォスベリーの背面跳びは、着地地点にウレタンマットが置かれるようになり可能となった新跳躍法だった。
見慣れぬ背面跳びは、スタジアムに集った観客には昔日のクラウチングスタート並みの衝撃だったろうが、フォスベリーは国内予選時にベリーロールと使い分けながらこの新跳躍法を披露しており、米国では既に知られていた。助走スピードを効果的に上昇力に繋げられる背面跳びは、忽ち世界のハイジャンパーたちが模倣しFosbury flop(flopとは「ドスンと音を立てて落ちる」の意であり、背面跳びの背中からの着地のさまを上手く表現している)と呼ばれるに至る。4年後のミュンヘン大会では、開催国旧西ドイツの16歳の少女ウルリケ・マイファルトがFosbury flopでハイジャンプを制し会場を沸かせた。
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