『断腸亭日乗』再読

辺見 庸 作家
エンタメ 読書 歴史

 若い時分はそうでもなかったのに、年とともに荷風が好きになり今はもう病みつきである。かつてさらりと読み流していたものが、このごろの険しい時勢もあってか、文言が凄い形相で起ち上がる。取りわけて『断腸亭日乗』。荷風散人、いやもう、何たるお人か。

永井荷風。浅草ロック座の楽屋にて ©文藝春秋

「褥中小説浮沈第一回起草。晡下土州橋に至る。日米開戦の号外出づ。」

『断腸亭日乗』昭和十六年十二月八日のこの記述を諳んじられるほど繰り返し読んだ。一大戦争なのだから昂揚なり動揺なりがあって当たり前なのに、いささかもない。翌九日になると「くもりて午後より雨。開戦の号外出でゝより近隣物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声瀟々たり。」と、流れるように記す。見事である。

 強大な米国の力を熟知していた荷風は、この時点で惨憺たる敗戦を予感していたであろう。しかし謎と言えば謎ではある。国家危急存亡の秋(とき)に「心やすく午睡する」とは。中島健蔵も亀井勝一郎も横光利一も高村光太郎も、凡そ当時の名だたる文人の悉(ことごと)くが頭に血が上り狂乱の坩堝に吞み込まれていったのである。ひとり滾(たぎ)る熱湯の中の“冷たい石”でい続けることは無論容易ではない。

 虚勢か。いや、むしろこれは戯作者を自称した作家の矜持とずば抜けた知性がそうさせたと思われる。『浮沈』は“女給もの”と呼ばれた荷風後期の小説である。つまり荷風は“女給もの”執筆を、対米開戦より上位に価値づけていたとも言える。意地でもそうしたかったのではないか。

 昭和十九年の八月十四日にはこう書く。

「秋暑いよ〳〵(いよいよ)甚し。日暮おしいつく〳〵(つくつく)始めて鳴く。毎夜近隣のラヂオに苦しめらる。喧騒を好む此等の愚民と共に生活するは牢獄に在るよりも苦痛なり。米軍早く来れかし。」

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source : 文藝春秋 2024年9月号

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