結婚によって皇室の権威性・神秘性が毀損されてはならない
なぜ皇室ではこの納采の儀のプロセスを重視して、現在も結婚儀式の一つとして残しているのだろうか。明治維新後、再び天皇を中心とした政治制度が構築された。その中では、皇室に関する儀式も様々に再興されたり、荘厳化されたりしている。それは、皇室制度・儀式を整備構築することで、人々に「支配者」としての天皇を印象づける作用をもたらしていく。儀式が厳格化すればするほど、そこには権威性・神秘性を持たせることができるだろう。先程述べた様に、皇族の結婚が様々な儀式をいくつも経てなされる背景には、そうした過程を人々に見せ、自分たちとは異なることを示し、権威性を保たせようとしたのである。
逆説的に述べれば、結婚によって皇室の権威性・神秘性が毀損されることがあってはならない。だからこそ、結婚に至るまでのプロセスの主導権は、常に皇室の側にあり、その過程で相手側は家柄や経済力などを見定められる。フォーダム大学が小室圭さんをフィアンセだとホームページで紹介したことは、日本の皇室の権威性を重く受け止めている証左とも言えるだろう。
納采の儀は、皇族の縁談を安全に進める装置のようにも考えられる
また、一般の結納から想像されるように、その儀式は家と家との関係性が重要視されていることがわかる。家制度が強固に構築された明治期以降、結婚も家と家との関係で行われた。個人同士の自由恋愛のみでは、そうした儀式は行われないだろう。その家制度の頂点こそ、皇室であった。だからこそ、皇族は納采の儀を行い、家と家との結婚を印象づけた。人々はそれをモデルにして、家制度をより強固にする結納を行っていく。皇族は近代の支配システムを構築するため、その儀式を行ったのではないか。
現在、そうした家制度はなくなり、家と家との関係性による結婚も少なくなりつつある。しかし、象徴天皇制は必ずしも、戦後の感覚だけではなく、戦前の慣行を引き継いでいる部分もある。戦前のように皇族や一部の華族など、限定された範囲での婚姻関係ではなく、現在は美智子皇后以降、その婚姻範囲は一般の人々にまで広がっている。納采の儀を経て正式婚約という制度自体が、現在の日本社会の婚姻事情に合っているのだろうか。
宮内庁が眞子内親王と小室圭さんが納采の儀を経ておらず、正式に婚約しているかどうかにあえてこだわり、わざわざフォーダム大学のホームページの発表にクレームをつけたのは、彼ら自身が旧来の考えをまだ残しているからと言えるようにも思われる。一方で、マスメディアによって、「予期せぬ時期に」婚約報道がなされ、人々に広がってしまう現状を考えるとき、納采の儀を経て正式婚約に至るという過程こそ、皇族の縁談を安全に進める装置のようにも考えられる。今回の宮内庁の姿勢が、皇族の結婚とは何かを私たちに考えさせる契機にもなっているように思う。