小説とボクシングは相性がいいと気づいた
ボクシングは、いつか書きたい題材として、ずっと町屋さんのなかにあった。
「ボクシングを始めたのと前後して、小説も本腰を入れて書き始めました。ボクシングと同じで、三島由紀夫ら過去の作品を読んで憧れが募っていった。自分もそういうものを書けたらいいし、これは一生を懸けてやっていくに足るものだと信じて心を決めました。それからは自分にとって小説もボクシングも、等しく日常をかたちづくるものとなりました。身近なものがふたつ、ごく自然に結びついて、いつかボクシングのことは書こうと思うようになっていましたね」
ただ、こうも思う。ボクシングとは小説にしづらい題材なのではないかと。
瞬発力とフィジカルだけがものをいう、言葉を徹底的に排した世界という印象があるではないか。試合を観ていても、ボクサーがしゃべらないのはもちろんのこと、観客の私たちだってろくに言葉を発さない。せいぜい「あ!」「うう!」「いけ!」と唸るくらい。
そんなボクシングという行為を言葉と結びつけていくなんて、ひじょうに難しい作業なのでは。
「そうですね。練習でも試合でも、ボクシングをやっている最中というのは基本的に、言葉の侵入を受け付けないような領域に入っていることが多い。事前的か事後的にしか思考がない状態で、最中は言語化不能です。そのズレを認識しながら、それでも書いていくというのが、自分には大事なところでした。
ただ思えば小説というものは、いちどきにすべてがわかるということはなくて、前から順に1行ずつ読み進めていかねばなりません。ということは、読んでいる最中の部分のことは意味がわからない。読んだことが意味を成すのは必ず事後的なんじゃないか。もしくは想像を膨らませて先を予想することもあるから事前的かもしれない。
事前的か事後的にしか思考がないのは、ボクシングと同じ。両者は原理的に相性がいいんじゃないかと、今作を書いていて思いましたね」
フィジカルとメンタルが溶け合い一体となっていく
究極のフィジカルな行為たるボクシングを描きながら、何よりもこだわって追いかけているのはボクシングに耽る「ぼく」のメンタルな面というのも、今作のユニークなところ。ひょっとするとボクシングというのは、恋愛などと同じように、心情の機微が色濃く出る行為なのか。
「それはあると思います。ボクシングを書いていておもしろかったのは、試合中はフィジカルとメンタルと作戦・戦術的なことが区別できない状態となるスポーツだということ。フィジカルとメンタルが溶け合い一体となっていくんですよね」