死・生還・結婚コース
主人と最初に会ったのは、退院した翌朝でした。退院したその夜、彼が会いにきて義兄に断られ、なかなか帰らないので、押し問答をやっているのを、私は2階で聞いておりました。しつっこい人だな、と感じました。そして、明日から、また、さぞうるさいことだろうと考えていたのです。
翌朝9時ごろ、来たのです。写真班を連れて、大きな果物カゴを持って。
彼は、私の手記が欲しいというのです。文章は、下手くその方が感じがでてよいというんです。目の前で書いてくれという要求です、果物の手前、私は弱ってしまい、止むを得ず書いたのです。彼は、意気ようようと一種異様な臭気を残して引き揚げて行ったのですがこの時はまさか、この人と結婚するとは思いませんでした。
彼から結婚を申し込まれたのは、5月の中旬だったと思います。その頃は、事件の捜査のスピードも落ちて、警察からの呼出しも一段落という状態だったのです。新聞記者もひまになったとみえ、床屋にも行くようになりYシャツも替えるのでしょう、不潔な彼も、まあ普通の状態になっていました。
しかし、余りミナリはかまう方ではないらしく、ズボンも筋目はたってないし、靴も買ってからみがいたことがあるのかしら、と思うような靴をはいていました。
容疑者の面通しの結果を知る為にも、新聞記者の人たちは、私たちと仲よくしてなければならなかったのでしょう。彼に限らず、毎日新聞の三谷記者、朝日新聞の長谷川記者などとは、よくお茶を飲んだり、映画をみせて頂いたりしていたわけです。もちろん1人ということはないのです。田中さん、阿久沢さんと3人か、阿久沢さんと2人、というのが多かったのですが、私と阿久沢さんが主人に招待されると、不思議と招待されるその日に、阿久沢さんが用事ができて、行けなくなる。2度、3度こんなことが続いて、偶然だったんでしょうね、まさか主人の策略とも思えないんですが。
でも、うまいんですよ仲々。ボードレールの詩など諳誦したり、ドストイエフスキイを語ったり、いま考えると噴き出しちまうんですが、娘の時はついフラフラと感心しちまうのですね。全くイマイマしいような話です。