私は、「銀行の中が大変です。早く交番へ知らせて下さい」と頼みました。
しかし、私のいっている事がわからなかったのか、私が這っているので、酒でも飲んで騒いでいるのとでも思ったのでしょうか、“なんだろう”といった顔を、お互いに見合せているばかりです。次第に人が集り、5、6人になりました。私は、これは知っている人に来てもらわなければ判ってもらえないと判断して、すぐ銀行の筋向いにある、鴨下酒店の小母さんを呼んで下さい、と叫びました。だんだん人が殖え12、3人になったと思います。そのうち巡査が1名きて、私を再び行員の出入口になっている玄関に担ぎ入れ、どうしたのかと事情を質ねるのでした。
「赤痢の予防薬を飲んだこと、そのため皆倒れたこと」を話すと、しつっこく今度は、犯人の人相や服装を訊ねるのでした。あれで、15分ぐらいも質問に答えていたのでしょうか、再び気を失い、気がついた時は聖母病院に収容されていたわけです。
あの手この手の新聞記者に追われる日々
病院生活は10日間でした。苦しかったのは収容されたその夜で、胃の洗滌、浣腸が済んだあとは、どうということはなかったわけです。
私たち生き残り4人は、ベッドを並べて一部屋にいたのですが、いつもカーテンのかけてある窓の外には、新聞記者が大勢詰めかけているのです。ガヤガヤ1日中騒いでいるのです。
確か入院3日目のお昼ごろですか、毎日新聞社会部の増田記者だと記憶しているのですが、白いうわっぱりを着て、お医者みたいな顔をして、入ってきました。ドアの外に1人、内側に1人、巡査が見張りについていて警戒しています。また部屋の中には大抵、2人1組の刑事が、私たちの証言をとりにきていたのです。
それでこの部屋に入ってきて直接私たちの話をとるということは、新聞記者にとっては大変な魅力なのでしょうが、仲々入れないのです。そこを通り抜けて、増田さんは来たのですが、頭にタオルをかぶっていたので直ぐ見破られ、看護婦さんに外に連れ出されてしまったのです。あの病院の看護婦さんは、修道院のそれのような白い布をかぶっているので、お医者も白布をかぶっているものと、思ったのでしょう。
しかし、この増田さんの冒険は、大分窓の外の記者たちを刺激したとみえ、その日の午後、1人の記者が、長い竹竿を回転窓の所から差し込み、しめてあるカーテンを突然開き同時に、脚立に乗っている写真班がフラッシュをたいたのです。ドアの内側に腰をかけていた巡査は、とび上って驚きました。しかし、窓の外からの撮影でこれは失敗したと、あとから聞きました。
恐しかったのはその翌日の夜です。9時過ぎ、寝る前の御不浄に行った時、お手洗の窓から、突然アカジミた鬚づらが現れ、ホソボソとささやくような低い声で「村田さん、おからだどうですか」とはなしかけられたのです。臆病な私は脊筋が凍るような恐しさを覚え、思わず、“お母さん”と金切り声を上げてしまいました。
形勢不利と、“顔”は闇の中に消えましたが、この人は、読売社会部の白土記者、主人の親友で、その後おつき合い願っていますが顔に似合わない優しい人なのです。その顔も当時は捜査本部に詰めっきりで垢だらけ鬚ぼうぼうだったので、特に恐しくみえたのです。
考えてみれば何時くるか判らないのに、寒い冬の夜、それも便所の窓の下という臭い所で、全くお気の毒というより仕方ありません。新聞記者は、ほんとに好きでなければ勤まらないと思います。