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 本書では、飼い主夫婦ばかりでなく、猫たちも、その最大公約数的幸福の模索に協力しているように思える。他者を想像し、思いやり、工夫する、なんて人間並みのことを、ごく自然に猫たちもこなしているように思えるのである。もしかしたら、人と暮らすすべての生きものは、自然とそういうことができるのかもしれない。

 ところで、猫というものはいったいなんだろうか。猫にまつわる本を読むと、いつもあらためてそう感じてしまう。本作でもそうだ。ひとり暮らしをはじめた二十歳のときから三十年以上、作者の前にふっと姿をあらわす、さまざまな猫。

 中央線沿線は、たしかに猫が多い。私の仕事場のある一角も、地域猫とおぼしき一団がいて、もうすっかり顔ぶれを覚えてしまった。だからよけいに思う。たんなる顔見知りにしかならない猫と、家族になる猫は、いったい何が違うのだろう。人慣れしている、していない、ということはもちろんあるが、でも、家や庭にしょっちゅうやってきても、家に居着かない猫だっている。かと思うと、玄関先で帰りを待つがごとく忽然とあらわれる猫もいるのである。

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 これもまた、宿命だろう。おなかに宿った赤ちゃんが、たまたまその子であるように、私たちが「出会ってしまう」猫は、たまたま縁あって、紛れもない私のもとにやってきたのだと思う。作者が二匹目の猫をもらいにいくとき、選んでいるように見えるが、実際は、作者は猫に選ばれているのである。一瞬の心変わりは、猫が操作しているのだと私は思う。猫は宿命や縁といったものに、かくも従順なのだ。

 猫は縁をもとに、私たちを選び、何か使命を持って(持たされて)忽然とあらわれる。と私は信じているのだが、それにしても、作者に関係してきた猫を思うと、本当の本当にそうなのではないかと、ますます強固に信じたくなる。

 大学生になったものの留年し、卒業して入社したものの半日でやめ、異性の友人の風呂を平気で借りにいき、あたらしい仕事よりも地下鉄のバイトを選び、知人の家に居候する。ここに描かれた二十代を読んでいると、「この人、どうなっちゃうんだろう」とだれもが思うだろう。読み進めていくうちに、その心配は、「この人、猫に会わなかったらどうなっていただろう」に変わるのではないか。作者本人には失礼だけれど、私はそうである。この人は、猫に導かれるようにして結婚相手と巡り会い、仕事を増やし、家庭を作り、それにふさわしい家に引っ越し、ちゃんと父親になった、そう読めてしまう。猫に会わなかったら、ひとりきりで、もっと無鉄砲で刹那的な生きかたをしていたのではないか。

 ひとりの青年の前に幾度となくあらわれる数々の猫は、「だいじょうぶ? ちゃんとやれてる?」と親のようにささやき続け、そしてついに、その重大任務をその一身にまかされた猫が送られてくるのである。すなわちスーとモー。二匹は、作者に、家族を作らせ、最大公約数的幸福を模索するという任務を、完璧に遂行しつつあるではないか。

 あとがきで、北尾家がまた引っ越したことが明かされる。しかもその場所は中央線とはいえ、長野! 人生って本当に思いも寄らないことが起こるのだなあとしみじみ思う。

 猫は未来を憂えないという。一日や二日なら猫が留守番できるのは、まさに未来を憂えないからだと聞いたことがある。「明日も飼い主が帰ってこなかったらどうしよう」「いったい、いつになったら飼い主はあらわれるのか」という思考回路ではないそうだ。「今、飼い主がいない」という状態しかないから、さみしいけど、ま、寝っか、となる。真偽のほどはわからないが、うちの猫はまさにそんな感じだ。留守から帰ると起き出してきて、「今までいなかったじゃん!」と思い出したようにすねる。

 北尾家および作者に、まったく思いがけないことが次々起こってもへいちゃら(そうに見える)なのは、猫が身をもって教えているからだろう。

 先のことなんて考えたって仕方ないよ、起きたらなんとかすればいいんだよ。

 だいじょうぶ、何が起きても、にゃんくるないさー、と。

にゃんくるないさー (文春文庫)

北尾 トロ(著)

文藝春秋
2015年5月8日 発売

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