朴烈大逆事件は支配階級の巧妙なデッチアゲだった! 筆者は左翼運動研究家として真相を最もよく知る人
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「朴烈文子大逆事件」(解説を読む)
デッチアゲ? 物的証拠もないまま大逆罪となった「朴烈事件」
「朴烈事件」とは大正12年9月の関東大震災のまっさい中に、朝鮮人朴烈(本名朴準植)とその妻、日本人金子文子とのふたりが共同謀議して、大正天皇を殺そうとする目的で爆ダンを手に入れようとしたのが発覚したというのが表面上のいきさつである。
だが、この事件には何ひとつ客観的な物的証拠というものはない。爆ダンもなければ、爆ダンに似たものもなかった。そしてただ「天皇を殺そうと思った」だけであり、そのために「爆ダンを手に入れようと思った」だけであるということになる。それでいながらいつのまにか大逆事件にされてしまった。文字どおりのデッチ上げである点では今日の三鷹事件や松川事件と、事件の本質はまさにそっくりである。
それなら何故に裁判所や警視庁が、よってたかって朴烈、文子のふたりを、しゃにむに大逆罪という大罪にたたきおとさなければならなかったか。その理由は、当時の社会性の特別に重大な事情の中にあったのである。
関東大震災で巻き起こった「鮮人さわぎ」
重大な事情とは何か。関東大震災のまっさい中に、いわゆる「鮮人さわぎ」というものがおこり、そのどさくさまぎれに、関東一たいにわたって軍隊や警察や自警団の手でおこなわれた、3000名に近い朝鮮人の大虐殺のことである。
関東大震災は人もしるとおり大正12年9月1日午前11時59分におこった。そして午後4時ごろには、東京の本所深川をはじめ、日本橋から浅草、神田の一たいは火の海となり、横浜はほとんど灰になっていた。そして、朝鮮人さわぎはそのような焼け跡の港となった横浜に、はやくもその晩のうちにおこったのだ。焼け出された何万かの横浜市民は、波止場にちかい税関の原っぱににげこみその晩はそこで野宿した。いのちは助かったがたべ物がない。飢えきった彼らが思いついたのが税関倉庫にある輸入食糧である。倉庫をやぶってそれをもち出すことである。そういう避難民の要求の先頭に立って、勇敢に倉庫やぶりをしたのが、同じ場所に避難していた右翼団体の頭目、立憲労働党総理山口正憲とその女房である。彼らは右翼のくせに、ふだんでも赤旗赤ハチマキでおしあるいていた。そのときも赤旗をおし立てて群衆を指揮せんどうし倉庫をやぶって食糧をもち出し避難民にわけてやった。
ところがそれだけでよしておけばよかったのに、そのあとが悪かった。山口正憲一派は倉庫やぶりの責任をまぬかれるために、それを朝鮮人になすりつけた。「襲撃したのは朝鮮人だ。朝鮮人がやったのだ。」と焼けて灰になった横浜の街の中を、その晩さかんにどなってあるいた。この悪質なデマ宣伝と彼らが赤旗をおし立てて襲撃したこととがひとつになって、社会主義者が朝鮮人と一しょになって、いたるところに火を放ち、乱暴ろうぜきのかぎりをつくしている、という、世にもおそろしい流言蜚語に、いつのまにか変っていったのである。