立松判事が用意した”おとしあな”
立松判事は被告同志の対決訊問をするという名儀で朴烈と文子を地方裁判所の自分の部屋によびよせた。そしてふたりをならんですわらせて自由にしゃべらせた。朴烈は思わず文子の手をにぎる。つづいて体を引きよせる。それでも判事はだまって見ている。長いあいだ牢獄の中で空しく引きはなされていた若い肉体と肉体は、こうして相ふれあった瞬間、たちまちほのおとなって燃え上った。朴烈は文子を膝の上に抱き上げる。文子も朴烈にからみつく。判事はニコニコしている。がまんでできなくなったふたりは、思わず狂熱的な接吻を交わす。それでもやはり立松判事はニコニコしている。さらに長い長い、狂気のような接吻がつづく。
このような対決訊問が3度か4度くりかえされた挙句、やがて立松判事は自分の部屋のカギ、大切な法廷のカギを朴烈文子のふたりにあずけておいて、自分は部下の書記をもつれ出して1時間もどこかへいってしまうことさえあった。判事も書記もいなくなった裁判所の一室、2つならべれば寝台ぐらいな大きさになる判事と書記との机もあれば長椅子もある。内部からドアにカギをおろして窓のカテーンを引いてしまえば、もうだれひとり入っても来られなければのぞきも出来ない。獄中で引きさかれている若い肉体がふたつ。そのような部屋の中におきざりにされた場合、いかなることが引き起されるかはだれにも十分想像できる。これこそが朴烈を大逆罪につきおとすための立松判事の最後のおとし穴であったのである。
「どうかあなたも私と一しょに死んで下さい」英雄主義を選んだ2人
その部屋にはじめてふたりだけになったとき、朴烈はまず文子の弱さを責めた。立松判事の陰険な謀略にひっかかってありもしない事実をみとめ、いつわりの証言をしたことを責めた。ところが文子は、逆に朴烈に訴えた。「たといいつわりの証言にしろ、もう証言をしてしまった以上、自分のいのちはない。あとはただ絞首台上の死をまつだけである。それよりほかの道はない。『絞首台上の死』。これこそがかつて幸徳秋水や菅野須賀子がえらんだ道であり、およそすべての革命家がいつかはえらばなければならない道ではないか。自分はいまやよろこんで絞首台上の死をえらぶ。もしこのままいつまでも牢獄につながれたままでいるならば、それはけっきょくなしくずしの死刑と同じことになる。そんなことになるよりも、どうかあなたも私と一しょに死んで下さい。一しょに絞首台にのぼって下さい。そのときこそ、ふたりの愛は永遠に輝き、ふたりの名は日本の、いな世界の革命史のいくページかを美しくかざるでしょう。」
文子のこの言葉に朴烈は感動した。「なしくずしの死刑か」「絞首台上の死か」。朴烈もついに後者をえらぶ決意をかためた。「一そのこと自分も思いきって大逆犯人を買って出よう。そうして壮烈きわまりなき英雄的な死をとげよう」。朴烈はついに文子と一しょに死ぬことをちかった。いく年も牢獄にほうりこまれていて、しょせん助かる見込がないと観念した場合の囚人の心の底に英雄主義の光が照り渡るとき、このような道をえらびたくなるのが人間の弱さである。三鷹事件の第2審でみずからすすんでいつわりの陳述をおこない、すきこのんで「死刑」をえらんだ竹内景助の心境にもこれと同じ動きがあったのではないかと私は想像している。