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知識欲に溢れ、成績優秀だった幼少期の朴烈

 朴烈は明治32年に、朝鮮慶尚北道聞慶郡の麻城面格里という村にまずしい農民の子として生まれた。朴烈の子供としての最初の記憶は日露戦争であった。日本の第一軍の先発隊がまず釜山に上陸した。そして京釜鉄道が日夜ぶっつづけの突貫作業で布設された。朴準植のいる麻城面から20里ほどはなれた慶尚北道の金泉洞にも停車場ができ、目新らしいペンキぬりの家々がそのまわりにたてられた。ぴかぴか光る2本のレール。その上を煙をはきながらすばらしい勢で走る長い大きな箱。その箱には窓が一列にあいていて、下には車がついている。生まれてはじめて汽車というものを見た朝鮮人は、おどろきの眼を見張ってこのごうごうと走る箱をながめた。10里20里の遠くからべんとう持ちで、ぞくぞくと見物にいった。朴準植の一家ももちろんその中にいた。前の年に父に死なれたこの一家は、未亡人になった母親と、幼い姉と幼い弟ふたりの4人づれだった。まだ4才にしかならない末弟の朴準植は、汽車の窓からのぞいている日本兵を見て、

「島のお玉じゃくし(日本人のこと)がたくさんやってきた」

 と叫んだ。

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「準植よ、黙っておいで。そんなことをいうとウエノム(夷)がお前さんをうちころすよ」

 と姉がたしなめた。朴烈はわずか4才にしてはやくも日本帝国主義に対する抵抗をその幼い胸に感じていたのである。

 やがて朴は咸昌の公立普通学校(日本の小学校にあたる)で新しい教育をうけるようになった。彼の知識欲はすばらしかった。成績はいつも優等だった。

朝鮮語は使用禁止 被圧迫民族としての怒りが芽生えた差別環境

 日露戦争のあと、初代の韓国総監伊藤博文が朝鮮の志士安重根のためにハルピン駅で暗殺されると、それを機会に日本は朝鮮を併合して日本の領土にした。

太平洋戦争前のハルピン ©文藝春秋

 その結果は朝鮮人と日本人とのあいだに極端な差別待遇がおこなわれ朝鮮人は日本人の奴隷同様になった。たとえば、朝鮮人はアヘンを密売すると厳罰にされていたが、日本人ならいくら売っても罰せられない。小学校では表向きは日本人と朝鮮人とは同文同種、平等一体だとおしえておきながら、じっさいは日本人の小学生はいくら成績が不良でもいつも上席についていた。学校では朝鮮語をつかうことを厳禁され、日本語をつかわないと罰をくった。朝鮮の歴史や偉人英雄のことは全然教えてもらえない。このような社会環境の中に頭脳優秀にして感じやすき少年朴準植の10代はすごされていった。そのためにいつのまにか被圧迫民族としてのはげしい怒りのほのおを胸のおくふかく燃え上らせるようになったのである。