1ページ目から読む
2/7ページ目

「朝鮮人にしてバクダンをたずさえて横行するものあり」

 その晩、猛火の中を横浜から東京ににげてきた憲兵のひとりは、それを本気になって内務省にうったえ出た。

 たまたま、加藤友三郎内閣がたおれたのが8月の末で、山本権兵衛内閣が焼けのこった赤坂離宮で組閣したのが9月2日の夜だった。そのような政治的空白状態の中で、内務省に居残っていたのが、加藤内閣の内務大臣水野錬太郎である。水野は、かつて朝鮮総督府の内務部長をしていたこともあって、朝鮮人をひどくおそれていた。それに生れつき気の小さい男なので、憲兵の訴えをきくと、すっかり青くなった。そこであらゆる警察の通信網を総動員して、その情報を関東一たいに流し、各地でてきとうな対策を立てることを命ずると同時に全国に向ってつぎのような無電を打った。

加藤内閣の内務大臣・水野錬太郎 ©文藝春秋

「朝鮮人にしてバクダンをたずさえて横行するものあり。社会主義その他不逞無頼の徒これに和し放火掠奪いたらざるなし、各位においてしかるべき御手配をこう。」

ADVERTISEMENT

「朝鮮人さわぎ」の流言蜚語が風のようにとぶ中を、それも内務大臣の名前で堂々とこのような伝達が流されたのだからたまらない。無警察同様になった東京の焼け跡でたちまち朝鮮人狩りがはじまった。

 亀井戸署では600人の朝鮮人と11名の日本人社会主義者が軍隊の手で殺された。多摩川では習志野の騎兵連隊の包囲攻撃をうけて400人が全滅した。埼玉県妻沼近くの利根河原でも300人の老幼男女が殺された。その無慚さはこんどの終戦当時の満洲で開拓団の人びとが匪賊に殺されたのとまさに同じありさまだった。こうして関東地方一たいで2000人以上、3000人に近い朝鮮人の大量虐殺が公然とおこなわれたのである。

「なぜ大虐殺はおこなわれたのか?」外務省にもちこまれた抗議

 東京にいた外国の大使館員や公使館員は、そのとき一せいに日比谷の帝国ホテルに避難していた。たまたま、食堂での雑談のときにこの大虐殺が問題になった。中でも一ばん強硬だったのはアメリカ大使だった。「このようなおそるべき大虐殺が公然とおこなわれる日本という国は、断じて文明国とはみとめられない。ことに、それを平気で見ていてとめようとしない日本政府は世界中でも一ばん野蛮な政府である。このような政府と国民とを相手にして、われわれは今後とも正常な国交をづづけてゆくことができるだろうか」とさえいい出した。そして、各国の大使公使の名をつらねたげん重な抗議文が外務省へもちこまれた。

震災から約35年後の帝国ホテル ©文藝春秋

 外務省はあわてた。とくにこの際アメリカのごきげんを損じては震災の救援物資ももらえないことになるかもしれない、というさもしい根性も手つだって、こんどは逆に朝鮮人虐殺を禁止させた。そのため、だいたい9月8日あたりから、15、6日ごろにかけてようやく事態は平静にかえったのであった。

 だが、ここでひとつ、とても厄介な問題がのこった。それは朝鮮人を3000人近くも何故に殺さなければならなかったか。その原因を外国に向って説明しなければならないことだった。それには朝鮮人が大震災のどさくさまぎれにおどろくべき悪事を企てた。だからこそ日本人の反感を買ってあんなことにもなったのである、ということにしなければならない。そしてとうとういつのまにか官憲の手でデッチ上げられたのがすなわち朴烈事件である。