夏目漱石を読み、民族独立のリーフレットを秘密出版した青年時代
やがて朴は普通学校の卒業成績がとくに優秀だったため、慶尚北道の道長官からすいせんされて、大邱の高等普通学校(中学)に入学することができた。だが家が貧乏で学資がないのでやむなく師範科の給費生となった。この高等普通学校でも日本語しかつかうことを許されなかった。英語も朝鮮語も禁止されていた。しかも、師範科の給費生であるがために、学校の当局からはいろいろな抑圧と制約を加えられるし、同じ大邱の私立学校の朝鮮人学生からは「内地化した野郎」とののしられてつねに心楽しからざる日をおくらなければならなかった。この民族愛に燃えながらも進歩的で知識欲のさかんな中学生はいつとなくまったくの孤独におち入っていった。そのためにかえって木下尚江や夏目漱石、小川未明、竹越三叉などの書物によみふけるようになり、しらずしらずのうちに民族的抵抗心と社会主義精神を同時に心の中に育て上げるようになったのである。
朴烈19才にしてさしもの長かった第一次世界大戦もおわりをつげた。アメリカのウイルソン大統領が新しい平和のスローガンとして叫んだ「民主主義」と「民族自決」の声は世界中に鳴りひびいた。その叫びが日本帝国主義にしいたげられてきた朝鮮人民の胸を魂の底までゆりうごかしたのはいうまでもない。それは大正8年3月1日の万歳騒動となってばくはつし全半島は民族の自由と独立を目ざす一大暴動の波をもっておおわれた。朴烈ももはや師範科の一学生として学窓の中にじっとしてはいられなくなった。彼はおしげもなく学業をすて革命的実践へとつきすすんだ。そして京城に出て民族独立のためのリーフレットを秘密出版して街頭でまきちらした。
だが、このことのために、憲兵や警察のきびしい追究をうけ、朝鮮にいたたまれなくなった彼ははるかに弾圧の少い日本ににげてきた。時に20才である。
金子文子との出会いまで
東京に現われた彼は新聞売子や新聞配達、製ビン工場の労働者、人力車夫、ワンタン屋、夜警、朝鮮にんじんうり、朝鮮あめ屋、深川の立ちん坊、中央郵便局の集配人、という風に、およそあのころ日本へ渡ってきた朝鮮人がそうであったように朴烈もまた、たえず警察の妨害をうけては職業をかえた。
そのうちに、だんだん大杉栄の革命的無政府主義の影響をうけ、いつか無政府主義の旗、黒旗の下にあつまるようになった。やがて大杉の労働運動社や印刷工の黒風会とはべつに、朝鮮人だけの無政府主義団体黒濤会をつくり、彼はその中心的なはたらき手となったのである。
一方、金子文子の故郷はたしか静岡県だったと思う。朴烈とおなじ明治32年の生れである。はやく父に死なれた彼女は8才のとき母に捨てられ、朝鮮の忠清北道芙江にいた伯母に引きとられた。それから女中、女工、女給、なっとううり、その他、さまざまな職業へつきながら放浪に近い生活をおくった。そのうちにいつかはげしい時代の潮流の中にまきこまれて彼女もやはり無政府主義者となり、ついに朴烈と同志的結婚の道をえらぶことになったのである。これには彼女がおさないときから朝鮮でくらしたことが、大きな力になったのはいうまでもない。そして、朴烈文子のふたりは黒濤会の旗の下に、勇敢に革命運動をおしすすめているうちに、ついに宿命の関東大震災がおそいかかってきたのである。