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高齢者を高齢者として守るべき、とだけ考えることの軋轢

 そういう高齢者にも、社会での役割を与えて居場所づくりをしましょうという話はずいぶん出ます。でも、それまで社会や地域どころか家庭すらも顧みなかった高齢者が、いざ自分が歳を取ったからといって町内会やマンション管理組合に張り切って来られても困るという現実もあります。若い人を使う習慣に慣れ切ったどこそこの大企業の偉かった人が、ご退職とともにただの人となり、本人だけがいつまでも偉い気分でいられても周りは迷惑するという話はそこら中にあります。私も今年でもう44歳ですが町の寄り合いに出るとそれでも若いほうなので、何か待ち仕事や力仕事があるといつの間にか私の承認なく人数に加えられているという血圧急上昇事案に事欠かないのは日本社会の伝統なのでしょうか。

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 やはり、社会において存在意義があるのは価値がある仕事をしてくれる人です。それが畑仕事でも以前の職場の嘱託でも、生き甲斐や働く楽しさを実感できているうちは良いほうで、病気や後遺症で元気に歩けない、働けないとなると途端に皆さん弱気になります。そりゃあ誰ともお話をされずに一日寝ながらテレビを見ているだけの生活では鬱にもなりますし、将来を悲観してもおかしくはありません。せめて「街中の掃除でもご一緒しましょう」と声をかけても、「しゃがむのが辛い」とか「そういう仕事は若い人がやるものだ」などと言われるとこちらの血圧も急上昇します。しまいには、近所の人たちが心配で声をかけているのに、「何をしに来たんだ」やら「遺産狙いだろう」みたいな暴言を吐く人も少なくないと言います。

 結局、高齢者を高齢者として守るべきものとだけ考えることで、随分いろんな軋轢が出るのだということが良く分かります。独居老人が自宅で孤独死したら可哀想だとみんなで声かけしようといっても、本人が迷惑そうにしていたときにどうするのか。誰とも話をしない老夫婦に入っているヘルパーさんに「最近ご夫婦どんな感じですか」と聞いても個人情報だから喋れませんとか。まあ、無縁社会にしたくないよね、誰もが安心して最後まで暮らせるようにと気を揉んでも状況がそれを許さなかったり、とにかく世の中うまくいかないようにできているんじゃないかというぐらい、動脈硬化を起こして融通が利かない状態になっているように感じます。

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それでもお前は長生きしろと強制するような社会って

 思い返せば、文明社会、とりわけ戦後から現代にいたる時期は、長生きこそ最善として、ご長寿を競って頑張ってきましたし、いまでも長生きすることは価値なのだ、と信じています。一方で、思った通り生きられない高齢者が、生きていることそのものが罰ゲームだ、不自由な人生はもう要らないと思うようになったとき、それでもお前は長生きしろと強制するような社会ってそれはそれで大変なことなんじゃないか、と高齢者の自殺の理由を見てぼんやり思ったりもします。

 人間って生きるのも大変ですが、死に方も相当に苦労するもんなんですねえ。