炙り出された「親密圏」
一連の炎上騒動を観察する中で、私が興味深いと感じたのは、インターネット空間では、大学の教壇にも立つような妖怪研究者と妖怪マニアとが一種の「親密圏」を形成しており、妖怪を直接批判しなくても、ネガティブな文脈で語っただけで、あたかも「自分たちが否定された」かのように即断し、共通の敵に対しては猛然と反撃に出る人々と環境とが、常に存在するらしいということである。
問題は、正当な学問を修めたであろう研究者が、およそ研究者らしからぬ幼稚な言辞を弄してマニアを煽ったり、進んでその旗振り役を担ってしまう構造が存在する点である。このことは、民俗学には研究とマニアとの線引きができていない「主客未分化」の研究者が存在することを意味しており、学術としての民俗学にとって、ゆゆしき事態だといえる。
たとえば、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」は、徳川家康が黒幕だったとする陰謀論がある。1996年に放送されたNHK大河ドラマ『秀吉』(竹中直人主演)では、この家康黒幕説が採用され、信長死亡までの経緯が描かれていた。「本能寺の変」のように、真相がわからない重大事件は、常に後世の人々の好奇心を刺激してきたのだろう。しかし残念ながら、いかなる黒幕説も史料的裏付けを欠いており、歴史学では到底承認されない珍説である。
一方で、その種の陰謀論は歴史マニアの中に根強い信奉者が存在するのも事実である。最近では『応仁の乱』(中公新書)の著者で歴史学者の呉座勇一氏と、そうした珍説を主張するメディア文化人との間で熾烈な論争が交わされたが、このような論争を行なうことで、歴史学は学術としての正当性を世に発揚できるのだ。
「チンギス・ハーン=源義経」という珍説を学者が支持したら
だが、もし歴史学者が、荒唐無稽な巷説を奉じる歴史マニアと「親密圏」を形成し、徒党を組んで陰謀論や「チンギス・ハーンは源義経である」などの妄説を展開しはじめたらどうなるだろうか。その人の学術的信用は確実に失墜するであろう。
民俗学の困難は、こうした学問の正当性を賭した厳しい議論が起こりにくいことである。なぜなら、研究者自身が、研究対象としての「民俗」への愛情が先行するあまり「主客未分化」に陥り、学問が当然もつべき峻厳さが忘れられがちだからである。このことは、民俗とは常に愛惜の情感が向けられ、保護・顕彰されるのが当然であるという印象のみを広め、その負の部分に対して言及することへのタブーさえ醸し出しているといえる。