1ページ目から読む
3/3ページ目

「今の『が』の使い方は違うね」って教えてくれた逸見さん

―― 実際入られたフジテレビというのはどんな雰囲気でした?

八木 賑やかでしたね。当時、『ひょうきん族』の収録が確か水曜の夜だったんですよ。で、生放送の『夜のヒットスタジオ』もその日にあって、メイク室がすごい賑やかになるんです。その時にうっかりメイク室に行くと大変なことになって。当時、同期の(有賀)さつきが、「『ここには壊れた大人がいっぱいいるんだよ』って上の人が言ってた」って話してくれたのを覚えてますね。「ホントだね」「常識が崩壊しそうだよね」って2人で盛り上がって。私、意外と普通の環境で育ってたんで「ここにいられるんだろうか……」って。

 

―― フジテレビという環境に不安みたいなものを持ってたんですか?

ADVERTISEMENT

八木 常に不安を感じてましたね。「私、大丈夫かな?」って。当時って、コンプライアンスっていう言葉がなかったですから。今思うといろんな衝撃的なことがありました。フジテレビの勢いが一番すごい時に入社してるから、たぶん上の人も調子に乗ってるんですよね(笑)。だから、下の人間からすると無謀なことをいっぱい要求されることが多くて。

――ちょうどバブルの時代ですよね、その頃は。

八木 そうなんです。だから、私含めて当時ぺーぺーだった同世代の人たちって、バブルにいい思い出ないんですよ(笑)。下働きでひどいことをいっぱいさせられたし、特にADさんとか本当に大変だったと思う。私たちも無謀な要求とかに葛藤してましたね。

―― 最初の仕事からヒドかったって聞きましたけど。

八木 4月に入社して、5月30日まで研修やって、5月31日にフジサンケイグループのゴルフ大会のプレゼンターをやるっていうのが最初の仕事だったんですよ。その時に「バニーガールの格好でやってくれ」って言われたんです。アナウンス部長もその場で自分で断ってくれればいいのに「どうする?」って。「『どうする?』じゃなくて!」って思いましたけど(笑)。それで同期の3人で相談したんですけど、新入社員だから断っていいのかも分からなくて「せめてテニスウェアなら」みたいな、なんかよく意味が分からないお願いをして(笑)。女性からするとバニーガールとはだいぶ違うんですよね。結局、ゴルフウェアになったので、全然問題なかったんですけど。そういう時代だったんです。

八木さんの単著と、八木亜希子・河野景子、有賀さつきの「3人娘」による『私たちがアナウンサーだったころ』

―― バブルの時代ってみんなが楽しかったわけじゃないんですよね。

八木 つらかったです。そういう思い出がいっぱいあって、思い出話は楽しいです。あの世代で会うと、バブルの頃の取材とか、現場でされた無謀な要求自慢になってきたりしますから。「今は絶対あり得ない!」 みたいな感じで。普通に、朝出勤してきたら、玄関に倒れている人がいましたから。で、大丈夫かなと思うと、寝てるんですよ。そういうのがゴロゴロ普通にいましたね(笑)

―― 厳しかった先輩はいましたか?

八木 先輩はみんな厳しくて優しかったですね。怒る時は怒って、でも、普段は楽しくてっていう感じ。試験の時の逸見(政孝)さんが怖かったのは覚えてます。自己紹介でみんな自由に話すんですけど、「今の『が』の使い方は違うね」って言われたりして話すのに緊張しました。実際に仕事をご一緒した時は、ほんわかした雰囲気で楽しくやってくださいました。ご本人はとってもきちんとした方で、後にも先にもそういう人を他で見たことないんですけど、バラエティの生番組で自分のストップウォッチを持ってるんですよ。

―― え、自分専用の?

八木 スタッフの秒出しとは別に自分の時計も見て時間を確認している。「どうしてバラエティでも持ち歩いてるんですか?」って聞いたら、「生放送だから、何かが起きた時に人のせいにしないため」って。

―― へえー、スゴい!

八木 そんな素敵なことを聞きながら、私は持ったことがないっていう(笑)。

やぎ・あきこ/1988年早稲田大学文学部卒業、フジテレビに入社。「おはよう!ナイスデイ」「めざましテレビ」「スーパーニュース」「明石家サンタ」など、報道・バラエティほか様々な番組を担当。2000年3月にフジテレビを退社し、02年結婚、アメリカに渡り、07年に帰国。09年から「BSフジLIVEプライムニュース」でメインキャスターを担当した。女優として『あまちゃん』『真田丸』『カルテット』などに出演。映画『みんなのいえ』ではアカデミー新人俳優賞を受賞している。著書に『その気持ちを伝えるために』。

写真=榎本麻美/文藝春秋

ヘアメイク= 井上まみ