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若槻内閣と陸軍首脳の連繋

若槻礼次郎

 事変発生当初、若槻内閣は、国際的平和協調の外交方針から、事態を拡大しないよう陸軍首脳(南陸相・金谷参謀総長)に要請した。国際的平和協調とは、具体的には、当時の東アジアの国際秩序(ワシントン体制)を尊重することだった。

 南・金谷ら宇垣派は、もともと内閣の意向を尊重する姿勢であり、その要請に従い関東軍に事態不拡大を指示した。

 ただ、宇垣派陸軍中央首脳部(局長・部長以上)も、当時の日中間の緊張関係のなかで、満蒙の既得権益を守るためには、ある程度の武力行使はやむをえないと考えていた。

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 したがって、事変直後、朝鮮軍(朝鮮に駐留する日本軍)が、関東軍の要請により独断で満州に部隊を派遣したさいには、事後的にそれを承認した。関東軍の動きを支援する一夕会系幕僚の強い働きかけを受けたからである。

 関東軍が朝鮮軍に出兵を要請したのは、南満州占領のためには関東軍だけでは兵力が不足するためだった。関東軍は事変開始翌日には南満州の主要都市を占領した。

 若槻内閣は朝鮮軍の独断越境に驚いたが、容認姿勢となった宇垣派陸軍首脳との信頼関係の継続を重視し、結局それを認めた。明治憲法下では内閣は軍に対する指揮命令権をもたず、関東軍をコントロールするには、宇垣派陸軍首脳との連繋が不可欠だと考えていたからである。

 またその後、関東軍は、現地の中華民国地方政府(張学良政府)を否定して、独立新政権樹立の動きを示した。それを永田ら一夕会系幕僚が支持すると、彼らの強い圧力を受けた陸軍首脳はそれも容認した。当初新政権樹立に反対していた若槻内閣も、朝鮮軍の無断越境時と同様、結局陸軍首脳の判断を容認した。

 ただ、この時の独立新政権は、後の満州国とは異なり、中国の主権を前提とした自治的な独立政権だった。したがって若槻内閣は、独立新政権が、ワシントン体制(中国の領土保全を定めた九ヵ国条約を含む)が許容しうるギリギリのラインだと考えていた。

 このころ宇垣派陸軍中央首脳部も、武力行使が始まった以上、一時的な南満州占領、親日的独立自治政権の樹立(中国主権を前提)までは、やむをえないと判断していた。

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