動きがとれなくなった一夕会
だが、若槻内閣や宇垣派陸軍首脳(南陸相・金谷参謀総長)が、関東軍や永田ら一夕会系中堅幕僚に引きずられたのはここまでだった。
一一月に入って、関東軍は北部満州(北満)の黒竜江省省都チチハルへの進撃を企図した。だが、ソ連との衝突を危惧する軍中央首脳部は、これを阻止すべく、臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動した。
本来、出先の軍司令官は天皇に直属しており、参謀総長といえども関東軍司令官を直接指揮命令することはできなかった。臨参委命とは、参謀総長が出先の軍司令官を直接指揮命令できる権限を天皇から委任されたもので、これにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に入った。これは、関東軍ら出先機関への陸軍中央の統制力を強化するための処置だった。
北満は旧ロシアの勢力圏で、なお中東鉄道などソ連の権益が存続していた。若槻内閣も、国際的な考慮から、関東軍の動きを止めるよう南陸相や金谷参謀総長に強く求めた。
南陸相・金谷参謀総長は、この臨参委命によって関東軍のチチハル占領を阻止した。関東軍は、中国側の馬占山軍との戦闘経過のなかで一時チチハルに侵入するが、陸軍中央からの命令によってすぐに撤退を余儀なくされる。また陸軍中央は、同様に関東軍の北満ハルビン出兵要請も認めなかった。
だが関東軍はチチハル占領断念後、方向転換し、さらに張学良政権のある錦州に進撃しようとした。陸軍中央は、この関東軍の動きも臨参委命によって押しとどめた。錦州はイギリス権益の関与する北京・奉天間鉄道(京奉線)の沿線に位置した。
関東軍の錦州侵攻についても、若槻内閣は、南や金谷に、その阻止を強く要請していた。
実はこの時、これまでとは違ったレベルでの、陸軍中央首脳部と一夕会系中堅幕僚層の意見の相違が表面化する。
陸軍中央のなかで、南・金谷のみならず、杉山元(はじめ)陸軍次官や二宮治重(はるしげ)参謀次長、小磯国昭(くにあき)軍務局長、建川美次(たてかわよしつぐ)作戦部長も、チチハル・錦州占領には強く反対した。彼らはすべて宇垣派で、対ソ・対英考慮からだった。彼ら陸軍首脳部は、関東軍司令官以下主要幕僚の更迭も辞さずとの強い姿勢を示した。陸軍中央首脳部の断固たる姿勢に、関東軍はやむなくチチハル進撃、錦州攻撃を断念したのである。
だが、永田ら一夕会系中央幕僚たちは基本的に関東軍の動きを支持しており、当初から北満をふくめた全満州の事実上の支配を考えていた。また、張学良政権の覆滅は当然のことで、したがって錦州攻撃も容認さるべきとの姿勢だった。
南満軍事占領と新政権樹立までは、永田ら一夕会系中央幕僚たちは、建川・小磯ら宇垣派中央幕僚上層の一部を巻き込み、ついには南・金谷も動かし事態を推し進めてきた。だが、永田ら一夕会系中央幕僚も、北満チチハル占領や錦州侵攻の問題では、陸軍首脳部を動かせなかったのである。この時点で、関東軍や一夕会系中央幕僚は、動きが取れない状態となった。
また、石原ら関東軍は、前述のように独立新政権の樹立(中国主権下での)を主張していたが、その後、日本の実権掌握下での独立国家の建設(中国の主権を否定)を策するようになる。これは元来石原らが考えていた満蒙領有の一つのバリエーションだった。したがって、関東軍は、陸軍中央から認められていた新政権樹立の工作を続けながら、独立国家(のちの満州国)建設の準備を進めた。永田ら陸軍中央の一夕会メンバーも、関東軍の独立国家建設方針を容認していた。
だが、南・金谷ら陸軍中央首脳部は、関東軍の独立国家建設方針を認めず、この面でも関東軍や一夕会系中央幕僚は、それ以上事態を進めることが困難な状況となっていく。
一般には、陸軍中央や内閣は、関東軍にひきずられ、なすすべなく既成事実を認めさせられたと思われがちだが、彼らは一旦は関東軍を抑え込んだのである。