「師匠に勝負に対する心構えを教わった」
その歴史が動いたのは、1966年の第7期王位戦七番勝負である。大山康晴王位に有吉道夫八段(段位はいずれも当時)が挑戦したシリーズだが、有吉は大山の弟子であり、史上初めて師弟がタイトル戦でぶつかることになった。
このシリーズは大山が4勝1敗と、弟子に貫禄を見せた形となったが、有吉は「師匠に勝負に対する心構えを教わったと思っている」と振り返っている。
以降、大山―有吉のタイトル戦は第9期王位戦(大山の4勝2敗)、1969年の第28期名人戦(大山の4勝3敗)、1972年の第21期王将戦(大山の4勝3敗)と、計4度実現した。有吉は師匠の壁を超えることはできなかったが「師弟でタイトル戦を戦っているのは私と大山先生だけで、これは誇れる記録だと思っています」と振り返っている。
大山―有吉の師弟戦は69局(大山の40勝29敗)で、師弟戦としては断トツの数字(2位が田中魁秀九段―福崎文吾九段の20局。田中の5勝15敗)である。大山―有吉の年齢差が12歳と比較的近いことも師弟戦の増加に一役買ったではあろうが、なんといっても両者が長くにわたって第一線で活躍したからだろう。師弟がともに公式戦1000勝(大山1433勝、有吉1088勝)を達成しているのは、この二人のみである。
師弟ともにタイトル獲得経験があるケースは……
大山―有吉の師弟関係に、実績で匹敵するのが二上達也九段―羽生善治九段の師弟であろう。こちらは二上の引退が早かったこともあり、師弟そろっての1000勝達成とはいかなかったが(二上の通算勝利は856勝)、タイトル獲得の数はこちらの師弟の方が多い(大山80、有吉1に対して二上5、羽生99)。
そして師弟ともにタイトル獲得経験があるケースは、この両師弟の他に、大内延介九段―塚田泰明九段、米長邦雄永世棋聖―中村太地七段、桐山清澄九段―豊島将之竜王・名人の3組しかいない。
二上―羽生の師弟戦は1局(羽生の勝ち)しかなく、大山―有吉の例と比較すると段違いに少ない。これは二上―羽生の年齢差が38と離れていることも理由のひとつだが、二上がもともと早い引退を考えていた点も影響しているだろう。自著『棋を楽しみて老いるを知らず』(東京新聞出版局)には、
〈もともと、私は五十歳まで将棋を指すつもりはなかった。木村義雄十四世名人は四十七歳で引退を表明した。名人と私とでは格が違うが、その見事な引き際が常に頭にあり、手本にしたいと思い続けていた。
しかし、四十九歳でタイトルを獲ってしまったため、結果的に現役生活が伸びた。その間に世代交代は確実に進んでいた。
平成元(一九八九)年の三月、オールスター勝ち抜き戦で、私は弟子の羽生善治(当時は五段)と戦った。公式戦では初手合わせであり、もちろん本気で臨んだ。だが、ものの見事に負かされた。弟子とは三番しか指さないと決めていた私が、羽生には三度続けて負けたわけだ〉
と書かれている。そして「順位戦で当たる可能性を考えると引退の文字が見えてきた」という趣旨の文章が続いていた。