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東村山在住者にとっての志村けん
そんな“志村魂”の火が47歳になってもしぼむことがなかったのは、俺が東村山在住者であることも大きい。
住んでいるのは「東村山音頭」の歌詞に出てくる東村山一丁目ではないし(東村山一丁目は実在しない)、“♪庭先ゃ多摩湖♪”といえるほどの場所でもないが、中野区から東村山市に移って今年で31年になる。両親から東村山に引っ越すからと告げられた時は、最果ての地への流刑を言い渡された気がした。
中野といっても練馬寄りで畑ばかりの地だったが、それでも東村山のほうが田舎に思えたし、23区民だというわけのわからないプライドがあったし、すでに16歳だったとはいえ生まれ育った町を離れることに対する不安もあった。そんな想いを“だいじょうぶだぁ”と和らげてくれたのは、やはり志村だった。
東村山への移住を告げられた日の夜、まだ16歳だというのになんだって中野区民から東村山市民にならなければいけないのかと涙で枕を濡らしていると「ハッ、待てよ。東村山って東村山音頭の東村山じゃねぇか!」と気付き、「なら、移ってもいいか」と思えるように。
引っ越してから町を散策して志村の表札が掛かった家を見つけるたびに(東村山は志村姓が多い)、本当に志村が生まれた町なんだと軽い興奮を覚えた。それから、東村山駅東口のロータリーに植樹されたけやきの木「志村けんの木」があること、志村の兄貴が市役所に勤めていることを知って(当時)、さらに志村と俺の距離がグッと近づいた気がした。