ツイッターで芸能人にマウントを取ってしまう人々
ツイッターは平場です。普段は混じり合うことのない芸能人に直接意見が言える(ような気持ちになれる)装置でもある。そこが危ういところでもあり、「平場」だからこそ、人気も才能もある芸能人と比べて「劣っている」自分が浮き彫りとなっているように感じ、そのコンプレックスゆえ「こいつより社会をわかってる」「政治のこともわかってる」と本人にマウントかけなければ気が済まなくなってしまう人が出てくる。人との違いを「個性」ではなく、「上下」で捉えてしまう。
それは「批判側」だけではありません。芸能人の「怒」に同調する人は同調する人で「ツイートだけじゃなく行動を!」的な圧力をかけてくる。何かアクションを示さなければ「おかしい」と思うことをツイートすることさえ許されない圧力。きゃりーさんがツイートを削除せざるを得なくなった要因は、ただ攻撃的な批判リプが多かったからだけではないと思います。
芸能人は「コンテンツ」であって「人間」ではない
芸能人の自由な発言、特に「怒りの表出」に対して、「批判」にしろ「擁護」にしろ、とにかく尋常じゃない反応を見せてしまう人々の根底にあるもの。そこには「芸能人は私たちを楽しませるためにのみ存在している」という多大な思い込みがあるような気がしてなりません。そのタレントが発する思考と相容れなければ露骨に馬鹿にする。その思考が自分に合うものであればはしゃぎまくり「もっとやれ」と強要したり実際に行動しろとけしかけたりする。つまり「芸能人は一般人を楽しませるコンテンツ」であり、「人間」ではない。思想信条の自由を約束された「人間」ではないわけです。
「芸能人はのんきに●●つなぎとかしてていいよね」と「芸能人なら芸能人らしく私たちを楽しませろ」。コロナ以降の芸能人炎上案件の中には、この二つのアンビバレンツな感情に忖度しようとするあまり生まれたものも少なくないと思います。この相反する感情も結局は「芸能人を『人』とカウントしない」という同一ルールに則っている。芸能人に「怒り」を認めないのは、彼ら彼女らを「人」として認めていないから。「自分たちを楽しませる」以上でも以下でもない、それが芸能人の怒りに「怯む」人たちが考える、芸能人の在るべき姿なのでしょう。