文春オンライン

小泉今日子、きゃりーぱみゅぱみゅも炎上……「芸能人は政治に口を出すな」という人々の考え方

2020/05/11
note

小泉今日子さんのツイートのどこに「違和感」を覚えたのか?

 このような評論自体もそれこそ「自由」であり、もちろんその是非を問うようなつもりは毛頭ありません。ただ今回敢えて引用させていただくのは、「芸能人が政治的発言をした時にざわつく人々」の声をわかりやすく代表しているように思ったからです。結構色んな人が言及してる布マスクへの不満、それがなぜ小泉今日子だと「違和感」となるのか。その「違和感」の根底には何があるのでしょうか。

 小泉さんの発する「言葉の強さ(「汚らしい嘘や狡」)」に「戸惑う」と表現されていたこちらの記事。言葉の強さというのは、つまりは「怒り」です。たとえばこれ小泉さんが

「本当にマスクがカビだらけだとして、私の大事な人たちがそれを使うとしたら心配でたまらないし、とても悲しいです」

ADVERTISEMENT

 とツイートしていたらどうでしょう。絶対言わないと思いますけどどうでしょう。少なくとも「戸惑い」や「違和感」という表現にはならなかったのではないでしょうか。なぜならこっちは「哀」だから。「怒」ではなく「哀」。同じ「マスクへの不信感」を訴えているのに、そのアウトプットが「怒」なら「違和感」になり、「哀」なら「共感」となる。

小泉今日子さん ©文藝春秋

芸能人は「喜」「哀」「楽」は許されても、「怒」は許されない

 これってもう、政治的思考以前の問題なのではないかと思うのです。芸能人は政治発言云々の前に、とにかく「怒り」を表に出すこと自体が許されないんじゃないかって。確かに「厚木の小泉パイセン」が怒っていると考えるとめちゃめちゃ怖いですけど、もちろんそういう意味ではないです。「悲しい」とか「辛い」と言われると「そうだよね~」と憐れみのような、若干上からものも言えますが、「こんなのおかしいですよね」と声を荒げられると、怯んでしまう。それは、たとえが正しいか分かりませんが、かわい〜となでていた犬に急に吠えられたような感覚かもしれない。人々は芸能人が「怒」を表明するとなぜか突然怯むのです。

「喜」「哀」「楽」は許されても、「怒」は許されない。芸能人に対する歪んだ感覚は、彼ら彼女らが何らかの「怒」を表明したときに一気に溢れかえります。「#検察庁法改正案に抗議します」とツイートしたきゃりーぱみゅぱみゅさんは、結果的にそのツイートを削除することとなってしまいました。「社会のことなんか何も知らないくせに」「やれやれ」という見下すような呆れるようなリプや「歌手やってて知らないかもしれないけど」とありがたいご高説ぶっかましてくるものもあり、またそこでファン同士が争うのも看過できなかったのでしょう。ポップスターは辛いですね……。